あなたは、番目のお客様です。


 今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、もはや何人も否定しはしないであろう。たとえそれが人工であるといわれるブルブスの石片をいくつ集めたところで、まだ私には可能性しか信じられなかったのに、この一つの石器の出土は夢かと思われるほどに確実性を教えてくれた。もう何も語ることはない。すべては喜びであった。心の中は万歳の声を歌っていた。「ハックツセイコウ タダナミダノミ」とその翌日研究室へうった杉原先生の電文は、ひとり先生の心のみをあらわすものではなかった。赤城の山の、また名も知れぬ関東連山の紫色にかすむ雄姿が夕闇を迎えはじめた頃、私共は意気高らかに遺跡を離れた。日本の考古学史における輝けるエポックメーカー達は、ただその感激について語りながら、岩宿の駅へ急いだ。汽車をまつ間、駅頭を行き戻りつする先生は、その時涙を流したという。
(岡本勇「研究史一九四九年九月一一日のこと」『考古学手帖』2、1958年より)

  

写真1 若き日の杉原荘介先生と東京考古学会同人たち

左より藤森栄一、杉原荘介、吉田富夫、江藤千万樹、中村春寿の各氏

撮影 藤澤一夫先生 ドイツ製アルピン蛇腹カメラにて撮影 昭和15年頃 
(出典 宮坂勝彦編 銀河グラフティ信州人物風土記『藤森栄一』銀河書房1989年より)


はじめに

 これまで、杉原先生と岩宿遺跡についてのエピソードを中心にまとめておりましたが、内容の充実にともなって、「杉原荘介記念室」に名称を変更いたしました。これまでの、岩宿関係の内容はこれからも、より一層充実を図りますが、さらに新しいコーナーも準備しておりますので、ご期待下さい。なお、こちらのページの内容はすべて、わたくしの取材、及び末尾の文献を参考にまとめたものです。また、明治大学関係者、及び杉原先生に関する思い出をお持ちの方のご寄稿を歓迎いたします。


杉原荘介という考古学者

 まず最初に、学史の上では杉原荘介先生はいったい、どのように位置づけられているのでしょうか、その点についてまず斉藤忠先生の『日本考古学史辞典』の解説をご紹介いたしましょう。(写真はめずらしい笑顔の先生『考古学者・杉原荘介』より)

杉原荘介 すぎはらそうすけ〔人物〕大正二−昭和五八(1913-1983)

@大正二年一二月、東京都日本橋小舟町に生まれた。東京外国語学校仏語科・上智大学外国語学校独語科を修了し、昭和一八年(1943)明治大学専門部地歴科を卒業した。卒業とともに軍務に服したが、昭和二一年(1946)春復員。四月から文部省に勤務し、「くにのあゆみ」の編集等にあたった。昭和二三年明治大学専門部助教授、同二四年同大学文学部助教授、同二八年文学部教授。同三四年(1959)以降からは、明治大学人文科学研究所長・考古学陳列館長・史学地理学科長となった。昭和五八年九月一日死去した。享年六九歳。

A府立三中(現在都立両国高校)の時代から考古学の研究をなしたが、一九歳のとき、昭和七年(1932)には『史前学雑誌』(四−三・四)に「下総飛ノ台貝塚調査概報」を発表し、その後東京考古学会の同人として活躍した。登呂遺跡調査の推進者でもあり、また岩宿遺跡を調査し、その出土の石器群について、先士器時代の所産であることを確認し、その後の研究に基礎的な指針をもたらした。弥生時代の研究にすぐれ、「日本農耕社会の形成」によって、明治大学から文学博士の学位が授与された。日本考古学協会弥生式土器文化総合研究特別委員会の委員長として活動し『日本農耕文化の生成』の刊行の中心となった。また『明治大学文学部研究報告−考古学』の刊行にカをつくした。

G『原史学序論』(昭和二一年)、『日本先土器時代の研究』(同四九年)、『日本農耕社会の形成』(昭和五二年)。その他『弥生式土器集成』や『土師式土器集成』の編纂に当った。

C大塚初重「杉原荘介氏の訃」      (『日本歴史』    四二七、昭和五八年)
 同   「杉原荘介博士のご逝去を悼む」(『考古学雑誌』  六九−二、昭和五八年)
 芹沢長介「杉原荘介教授の訃報」    (『考古学ジャーナル』223、昭和五八年)
     「杉原荘介氏追悼号」     (『長野県考古学会誌』 四八、昭和五九年)

 


杉原荘介先生をめぐるエピソード、言葉

 つぎに解説からうかがえる杉原荘介像とはべつに、残された言葉、エピソードからのアプローチを試みてみました。年代別に順番となっておりますので、はじめから終わりまで読んでいただければ、杉原先生のお姿が想像していただけると思います。

目次

T 考古学を志したころ

考古学の道を志す
考古学をめぐる葛藤

家業と考古学の両立
語学が達者な杉原先生
非常な決意で考古学を始める
杉原荘介はダンスの先生?


U 師・森本六爾のなきがらに誓った決心

「アラユルリユウヲチヨウエツシテソツコクジヨウキヨウセヨ スギ」
古代人の生活と現代人の生活、森本六爾先生の死に際して
森本六爾先生のなきがらに誓う
発掘調査では皆がダウンしてから、もう一掘りがんばるのを身上としている
名探偵、杉原荘介
天才的な遺跡の発掘
短歌を詠む必然性?
可能性と必然性

クールな杉原と情の藤森
あだ名は「富士アイス」

226事件はオレが治めた
戦争で押し流された藤森栄一との二人三脚

「ボクは征くが奥さんと此の店を続けてゆけますか」
遺書『原史学序論』

戦場で考えたこと
「藤森君きっと帰ってきますよ」

栄一先生の復員に男泣き


V 岩宿遺跡を発掘したころ

原始世界の拡張・岩宿遺跡の発掘
恐怖の真夜中の岩宿での発掘
山内清男先生のなぐり込み
うれしかった茶臼山遺跡の発見
自説の誤りは素直に認める。金木の偽石器問題。


W 最後まで考古学研究に情熱を燃やす

グローバルな視点
あだ名は「旦那」
遺跡の保護に尽くす
杉原荘介はじめて頭を下げる
型式、学術用語のデパート杉原商店
実は「岩宿時代」の提唱者は杉原先生だった
?
「杉原仮説」破ってほしい
小原庄助さんが杉原荘介さんに
考古学の本質を一言でいうならば
晩年、泣きながら奥さんに感謝

白のタキシードで真っ赤な太陽を踊る
栄一先生の死に際して
藤森君を偲んで(弔辞)

最後まで講義に情熱を燃やす
「自分のやるべき事は全部やった、思い残す事はない。」
まぼろしの『東京湾』

書かれなかった「続・杉原仮説を破ってほしい」
破られた杉原仮説

 


X まとめ

私のあこがれだった杉原荘介先生
あるアマチュアの思い出


考古学を志したころ

考古学の道を志す

「少年の日、学友達と相誘い、下総姥山貝塚を訪れて、始めて見る古代の廃墟に私は無量の感慨を覚え、大きな迫力に身を委ねざるを得なかった。累々と堆積する貝層の中に、黙々として眠る古代人の営力を直感したからであろう。学校の教室においては、吾々何等これら古代人の活動について教はらなかった。それは専ら書かれた歴史に終始していた。然し、吾々の今日の存在もより古き時代における祖先よりも脈々たる生活連続として考えなければならないのではなかろうか。書かざれる歴史の中にも重要なる歴史があるのではなかろうか。然してそれら先縦者の営みを闡明(せんめい)することにも重要なる一つの意義がありそうである。祖先への憧憬と未知への追求心などこもごもの少年らしい感情は、徐々に私の行動を左右していった。そして、幼き日の、その偶然の一日が、今日の私の生活を決定する動機となろうとは思いもよらぬことであった。」(杉原荘介「原史学への意志」『原史学序論』葦牙書房1943より)


考古学をめぐる葛藤

 老舗の紙問屋に生まれた先生は、家業を継ぐ運命にありました。しかし、すでに小学校時代から考古学に興味を持ち、中学になると鳥居龍蔵先生の武蔵野会に所属してひたすら発掘に打ち込んでおられました。そんな荘介先生を父親は何とか、考古学をあきらめさせようと鳥居先生のところに毎日新聞の清水さんに頼んでお願いに行ってもらった、というようなこともあったそうです。
 そして、こんなエピソードもあります。座散乱木遺跡の発掘調査をおこなった東北旧石器談話会代表の鎌田俊昭さんは家業を継がなければいけなくなり、杉原先生に報告に行ったところ、「オレは家業を捨てて、考古学に邁進したんだ。お前も家業を捨てて考古学に命を懸けろ。」というように怒られたそうです。


家業と考古学の両立

 中学を卒業すること先生は家業の杉原紙店を継がれました。そして、和服をきて帳場に座ったり、重い紙を満載したリヤカーを引いて配達したりする毎日が続きました。家業を継ぐに当たって、先生は父親に条件を出されたそうです。それは、夜間に学校に通わせてもらうことと、考古学を続けることでした。そして、東京外語大学、上智大学の夜間部に聴講生として通学され、語学の研鑽に励まれたのです。それと同時に、旧石器や考古学全般に渡る原書を購入され、先生の書斎はさながら大学の図書館のようであったそうです。明治大学の専門部に通って考古学を学ぶようになられたのは、父親の死後のことでした。


語学が達者な杉原先生

 東京外語大学で、フランス語を学び、上智大学でドイツ語を学ばれた先生は、大変語学が達者でした。後年、演習や口頭試問のなかでよく、「一言でいうとどうなんだ」とか、「英語で言って見ろ」という言葉が出たのも、そういう背景があったからに思われます。岩宿遺跡を発掘後、様々な石器の種類をフランス語で説明された杉原先生には、さすがの藤森栄一先生も眼を丸くされたのです。しかし、その後ヨーロッパの原語を日本の学術用語に置き換える試みをされ、現在の旧石器時代の用語はほとんどが杉原先生によって命名されたといっても過言ではないと思います。


非常な決意で考古学を始める

 「隅田川を蒸気船がポンポンポンと煙をはきながら、さかのぼっていくのを向島の料亭でお客と飲みながら眺めているとき、わたくしはこのようなことをしていていいのだろうか、という感慨にとらわれたのだった。非常な決意をもって考古学を学ぶ決心をしたのだ。このごろの人たちのようにただ何となく始めたわけではないのだ。」このように、後年弟子たちに荘介先生は述懐されたという。杉原先生は時折、一見強引に見えるような問題提起や、学会の運営が見られたが、これは、日本の考古学を背負って立つという、非常の決意のあらわれではないであろうか。


杉原荘介はダンスの先生?

「ダンスをして、その後飲んで、気分を良くして勉強したらいい。」(藤澤一夫先生談『考古学者・杉原荘介』より)

 東京考古学会の同志藤沢一夫さんが若い頃で、まだ森本先生が生きていらした時分に、杉原先生と意気投合され、何度もダンスに連れていってもらった。そのときの言葉です。杉原先生は生涯ダンスを愛され、別名をダンスの先生ともいわれていたそうです。その後も杉原先生はダンスをこよなく愛され、晩年までそれは続いたのであった。 杉原先生の最後のダンスへいく


師・森本六爾のなきがらに誓った決心

「アラユルリユウヲチヨウエツシテソツコクジヨウキヨウセヨ スギ」

「あらゆる理由を超越して即刻上京せよ」
 
森本六爾先生のご臨終が迫り来る中で東京考古学会の同人たちに打った電報です。森本六爾先生は鎌倉極楽寺の思い出深いあの家を丸茂武重さんの手配で借りられると、ここをもう動かない、とおっしゃられた。日に日に衰弱が激しくなる一方で、最後が近いのが予想された。杉原先生は最後の六爾先生の、近しい人々に別れを告げたいという願いの実現のために孤軍奮闘されたのであった。そして、六爾先生の死後遺品の始末や火葬場まで手配したのも杉原先生であった。

「逗子の火葬場で、森本先生の母上と、それまでも痩せこけていたと思われる骨を、泣く泣く拾い上げた私は、当時二十二歳であった。影響されるなというほうが無理であろう。花と散った人生、藤森君の筆をえてますます冴え、鬼気すら感じさせる。」(杉原荘介「藤森栄一『二粒の籾』推薦文」より)


古代人の生活と現代人の生活、森本六爾先生の死に際して

杉原さんがきいた。
「代々木西原での生活は短かったけれど、たのしかったですね」
「僕の、・・・・・最後の・・・・・最後らしい原稿を君にして貰った。それだけで、・・・・・・・・東京の生活はたのしかった」
 このときはじめて、杉原さんは、はらはらと涙をおとした。
「僕は・・・・・ね。やっぱり・・・・・古代人の生活だった。古代人の生活が書きたかったんだ」森本さんは、杉原さんの目をじっと見ていたが、「君は?」ときいた。
 杉原さんは、しばらく眼をこすっていたが、「僕は、現代人の生活を書きます」と答えた。
「端的にいえばね。僕だってそうだよ」森本さんが淋しいほほえみをもらした。(藤森栄一『二粒の籾』より)


森本六爾先生のなきがらに誓う

藤沢 それで、鎌倉の森本さんのおうちを一人で訪ねて行ったんです。幾ら声かけても誰も出てこない。しょうがないから一人で上がったら森本さん死んでいましてね。誰もいないんです。先生、煎餅みたいになって、頭だけがポコッとあって、布団の中に体が沈んで、まったく厚みがないんです。生前はえらい鼻息の方だったのに、紙みたいになって死んでおられる。これを見たらもう涙が・・・・・。そこへ杉原さんがやって来たんです。ダンスをやっている杉原さんと違うんです。今度は羽織り袴で扇子を持って来られまして、その扇子を森本さんの枕許に置いて、手をついて何だか別れの言葉か何かだと思うんですが、長々としゃべっておられる。私はもう涙が出てしょうがない。彼が何を言っているのかしらないんです。誰もいないし一人で泣いていたら、そこへ来て彼は涙を流さないで、一生懸命長いことしゃべっているんです。お別れを言ってたみたいです。

司会 杉原先生の記録ですと、森本先生の最後の原稿を前日まで口述筆記してたのです。「弥生式士器と弥生式石器」という論文ですか。

藤沢 そのときは、私と彼と二人しかおりませんから、彼が羽織り袴で扇子を持って、こうやって手をついて、森本さんにお別れを言っていた光景を見ている者は私一人だけなんです。誰もそんな話、聞かれた方ないだろうと思うんです。

司会 はじめて聞いた話ですね。それでどんなことをおっしやっていたかは?

藤沢 もう私は涙が止めどなく出て。親じが死んだときは涙も出なかったのに、森本さんのところにいったら人の気配がないし、そこに死んでペチャンコになっておられて、もう悲しくてね。それで、その後どうしたのか、その後の記憶がまったくないんですね。だから杉原さんが何と言ったのか全くいまはわかりません。
注、藤沢は藤澤一夫先生、司会は戸沢充則先生(藤澤一夫先生談『考古学者・杉原荘介』より)


発掘調査では皆がダウンしてから、もう一掘りがんばるのを身上としている

 「中学生のころから、住まいのある市川付近の貝塚や遺跡を掘りまわっていた。東大人類学教室の姥山貝塚の大発掘で、とうとうあきらめた発掘現場の限界を追って、いわゆる姥山式土器のすごい大集団を掘り当てた。由来、杉原さんは、力尽きて、皆がダウンしてから、一掘りがんばるのを身上としている。それが、かれを無類の当たりやにしたのである。緻密な計画をたて、それを、どんな障害をも押して、歯車のように実行した。学説も発掘もそうだった。ここをこう掘って、そこにはなにかある筈、いやきっとある。無ければ出すんだ、そういう気概の人だった。むろん、相手の思案や都合など、まるで眼中になかった。」(藤森栄一『二粒の籾』より)

 杉原先生は皆が発掘調査で、ダウンしてへばっていると、愛用の恐怖の円ピ(現在明治大学考古学博物館に明大の校旗がつけられて飾ってある)を手にして、トレンチへとおりていかれ、もう一掘りされるのであった。岩宿でも、日が暮れる寸前の最後10分間で最初の握り槌を発掘された。この恐怖の円ビは妻よりも大事であるとおっしゃられておられた。なぜ、恐怖かというと、一度なくされたことがあり、それを探すのに遺跡の中を、はいつくばって探すことを命令された弟子たちの命名によるものらしい。 注…円ピとはスコップの日本陸軍流の呼び名です。


名探偵、杉原荘介 天才的な遺跡の発掘 
写真は夏島貝塚を発掘中の杉原先生と芹沢長介先生『考古学者杉原荘介』より

「私は、かねてから、発掘にのぞんで、杉原さんと、いく度かこういう絶対の選択をせまられた場面にのぞんだことがある。彼は、いつも、そのとき、実にためらわずにいう。――やれ、ここだ――そして、その不思議な、決断だろうか感だろうか、いずれにしろ、まず十中八・九、目的物はその下にあった。」(藤森栄一先生『旧石器の狩人』より)

 岩宿遺跡を発掘したとき、当初相沢さんが槍先形尖頭器を発見した場所(現在のB地点)を中心に発掘する予定であったが、より層序の明らかな向かい側の崖(現在のA地点)を選び、杉原先生は発掘を開始した。そして、見事にハンドアックスを発掘された。また、登呂では最初に設定したトレンチから最初の住居址を発掘した。


短歌を詠む必然性?

 森本六爾先生に若い頃大変傾倒した杉原先生は森本先生の学説だけでなく、その生活スタイルを好んだと言います。森本六爾先生は、ただひたすら考古学の行者のように学に打ち込むのではなく、考古学を文学的な香りのする学問にしようと考えておられました。若い頃からアララギ派的な短歌を詠んだり、万葉集の研究に打ち込んだりしました。そして、口癖は考古学は文学であるという言葉でした。そういった考えも東京考古学会の若き同人たちは受け継いでいかれました。藤森栄一先生が詩、小林行雄先生が絵、丸茂武重先生が原始美学、そして杉原先生は短歌・哲学といった具合です。

「いきせきて車に乗りきたりし母娘あり 娘はその手にしっかり人形を抱きたり  荘介」


可能性と必然性

「杉原君は必然性にのみ生涯を捧ぐるという、僕は可能性にこそ生涯を捧げようと願う。」(『藤森栄一日記』昭和11年2月20日より)

 しばしは、杉原先生と栄一先生を比較すると杉原先生は行動の人であり、栄一先生は思索の人であるというたとえがある。読者のみなさんはどちらの言葉に、心が惹かれますでしょうか。私は、可能性こそ、とおっしゃられた栄一先生の言葉を支えに生きているような気がいたします。


クールな杉原と情の藤森

「ボクは遺跡をみつけ、掘る、遺物を洗う実測して製図して編年する。まっすぐクールにやってゆくんだけど、藤森君は掘る前に囲りの山を見て樹を見て人を見てそれから掘って、一つ一つ撫でるように洗って、掘ったあとの穴が雨や風のため土が少しずつ埋めてゆく様までじっとみつめているんだよ、これがボクと藤森君の学問のちがいだなあ。」(藤森みち子さん「杉原荘介先生と藤森栄一」『考古学者・杉原荘介』より)


あだ名は「富士アイス」

「カントだなんだと哲学の話と関係あるかどうかしらないけれど、その頃(引用者注・・昭和15年頃)の杉原さんの所へ出入りしていた國學院の連中は、(引用者注・・江藤千万樹さんをはじめとして樋口清之、乙益重隆さんらをさすものと思われる)杉原さんのことを「富士アイス」とあだ名つけてたよね。高くて冷めたいということかな。なにか一つソリの合わないところがある。そんなこともありましたね。」
 富士アイスというあだ名は、高くて冷たいというたとえと、少し頭を冷やせという意味があったということです。その当時の杉原先生は哲学に夢中で、カントの『純正理性批判』をもって、栄一先生といっしょに八ヶ岳の赤岳を登って、雨でずぶぬれになりながら、その一節を誇らしく読み上げたという事件もあったのです。
(坪井清足先生のお話による)


226事件はオレが治めた

 お若い頃、杉原先生はオートバイを乗り回して、大変な鼻息だったそうです。あの、有名な226事件が起こったときに、日本橋小舟町の紙問屋杉原商店の社長であられた杉原先生は、自ら自警団を組織して、226事件後の日本橋の治安を守ったそうです。750ではないけれども、オートバイを乗り回して、それは大変格好良かったそうです。だから、杉原先生にいわせると「226はオレがおさめた」ということなのです。  (坪井清足先生のお話による)


戦争で押し流された藤森栄一との二人三脚

「(東京考古学会東京研究所の研究会は杉原、藤森のコンビで二十何回か続いた、そして「遠賀川」の発掘が行われた、そうした学会の運営体制について)いずれにしても、杉原君が主役の位置を求め、藤森栄一君が脇役をつとめる体制がしだいにでき上って行くかに見えた。しかし戦争の暗雲は、それらの一切を蔽い包んで、押し流してしまったのである。」(小林行雄先生「青年時代の杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』より)

 歴史にifが許されるならば、もし戦争がなかったら、藤森栄一の後半生の苦しみは無かったに違いない。おそらく、葦牙書房の社長業のかたわらに、杉原先生とともに登呂、岩宿とつづく日本考古学の黄金街道をまっしぐらに走っていたことであろう。そういう意味でも、のちに小林行雄さんが藤森を行かせたくなかった旅として、戦争への旅として述懐されている。その他にも戦争で亡くなられた考古学者は大勢いらっしゃいますが、このページの「写真1」の江藤千万樹さんもそのなかのひとりでした。江藤さんは静岡県出身で、芹沢長介先生のよきライバルとして縄文時代の研究に顕著な業績をのこされました。藤森栄一先生の第一の弟子になられた方でしたが、昭和20年沖縄で戦死されました。27才という若さでした。(江藤さんの最後の様子は藤森先生の『かもしかみち以後』のなかに「考古学者の戦死」として紹介されております。)

 いったんは戦争で押し流された藤森、杉原の二人三脚であったが、二人の友情は終生つづいたのであった。そして、藤森先生の弟子でもあった戸沢充則さんが現在明治大学の学長として二人の学問を受け継いでおられます。


「ボクは征くが奥さんと此の店を続けてゆけますか」「ハイ・何とかがんばります。」

 杉原先生はこの言葉をのこされて神田岩本町の葦牙書房から戦場へと発たれた。食べかけのお膳の上に好物のワインが半分残されていたという。栄一先生の出征後、日本橋小舟町にあった杉原商店から明治大学へ通学される中間の神田岩本町に栄一先生の葦牙書房があり、此の店に毎日立ち寄られて留守を見舞われたという。そして、みち子夫人の心ばかりの手料理の夕食を召し上がられ、大学にいかれた。その日課は雨の日も風の日も一日たりとも欠かさずに続いたという。まさに杉原先生の強い意志と実行力の証明だったのではないだろうか。そして、運命の赤紙を受け取られたのも、葦牙書房から大学へいこうと、かまちへ降りられたときだったといわれている。(参考 藤森みち子さん「考古学に捧げた命二つ」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)


遺書『原史学序論』

「本書正に校了ならんとする日、応召を受く、筆者の光栄これに過ぎず。感激措く能はず、以て記す。」

 1943年(昭和18)12月、藤森栄一先生の経営する葦牙書房より本書は出版された。初版1000部であり、太平洋戦争が激烈な様相を帯びてきたその時代にこのような純学術書出版がなされたということは、特筆に値する。この初版の序文の末尾に掲げられたのが、この言葉であった。杉原先生はこの本を残されて出征されたが、それは、考古学者杉原荘介としての遺書でもあったのである。本書とほぼ同時期に出版された、直良信夫先生の『近畿古代文化叢考』(昭和18年10月初版葦牙書房)は2000部であるが、この本の序文には「葦牙書房主人藤森栄一氏は、御召に馳せ参じて、目下重慶を睨んで戦っている。留守居を守る令夫人は、三人の幼児を抱えて、出版報国のため敢闘している。私は、その意気に深く感銘するものである、戦線も国内も、みんなが一つになって、ただもうお国のために働いているのだ。戦争には勝たねばならない。撃って、撃って、撃ちまくり、撃ちてし止まんの祖宗の大御心を、今こそ、私共は奉戴顕現しなければならないのである。」という言葉がみられ、その時代をうかがうことができる。


戦場で考えたこと

「登呂遺跡は非常に大事な遺跡だ。俺は兵隊から帰ったら、おじさんの有光次郎文部次官を動かして、文部省から資金を出させて、考古学者総動員して登呂遺跡を掘るんだ」(江坂輝弥先生談『考古学者・杉原荘介』より)すでに、出征前登呂遺跡を視察し、その重要性を理解しておられた先生は、視察中に軍人にカメラを没収された経験から、登呂を掘るには戦争が終わらなくては出来ない、ということを痛感しておられました。佐倉歩兵57連隊の一等兵として召集され、戦地で病気にかかられ、南京の留守部隊に残されました。もし、のこされなかったら57連隊はフィリピンでわずか60人あまりを残して全滅した部隊ですから、生きて帰ることはなかったかも知れません。そして、留守部隊でマンジュウを作りながら、偶然巡り会った歩兵第1連隊の江坂輝彌上等兵に登呂遺跡の発掘計画を語ったのです。


「藤森君きっと帰ってきますよ」

 長い戦いの後、先生は栄一より一足先に帰還された。上諏訪の栄一の生家に戻って家業の手助けをしていた私の目の前に突然「ただ今」と云って現れた先生のみ姿に姑も私も目のくらむほどびっくりしたものだった。当時、栄一はまったく消息不明、国の便りに隊の全滅が伝えられていた時で先生の帰還は、一家にとっての一筋の光明だった。「藤森君きっと帰ってきますよ」といって先生が腰をあげられた時届いた一通のハガキは「無事帰った。○月○日、氷川丸で着く。」という栄一からのものだった。(藤森みち子さん「考古学に捧げた命二つ」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)


栄一先生の復員に男泣き

「よかったなあ、これでボクもまた研究が出来る。」と手放しで男泣きに泣かれた。「ボクの令状を藤森君の神田の店で受取り、ボクがここに来た日に無事の便りが届くとは、よくよく縁が深いなあ。」(藤森みち子さん「考古学に捧げた命二つ」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)


岩宿遺跡を発掘したころ

原始世界の拡張・岩宿遺跡の発掘
写真は岩宿遺跡発掘調査中の杉原先生(『群馬県岩宿発見のの石器文化』より)

 昭和24年登呂遺跡の二年目の発掘がやや終わりにさしかかった頃、研究室の留守番をしていた芹沢長介先生に杉原先生の発掘参加命令が届きました。すると、芹沢先生からは「自分も行ってみたいけれども、それよりももっとインタレストなものを今、自分はもっている。それは石器に関するものだけれども、なるべく早くお帰りを待つ。」といった趣旨の手紙が送られてきました。びっくりして帰京された杉原先生を待っていたのが、相沢忠洋さんの発見した岩宿の崖から出土した槍先形尖頭器と細石器であったのです。槍先形尖頭器は縄文時代の遺跡からも発見されている遺物であるので、大して注意を惹かなかったが、細石器とおもわれるバルブのある石片に注目した杉原先生は、すぐに岩宿の崖の試掘を決意した。こうして、我が国における旧石器の重い扉が開かれる体制は整ったのである。(杉原・芹沢・吉崎他『シンポジウム日本旧石器時代の考古学』学生社 1977を参考にしています)


岩宿を掘る

眼前に迫る関東ローム層の崖面を両側に見ては、何を端緒として発掘を開始してよいかに戸惑った。どの地点を、どの地層を選ぶかには何等の根拠も与えられていないのである。ついに、崩壊した土砂の中に比較的石片が多く混入している北側の崖面の一個所を選び、発掘を開始する。この地点を選んだのは全くそれだけの理由によってである。(杉原荘介『群馬県岩宿発見の石器文化』より)

 相沢忠洋さんが槍先形尖頭器を発見した場所は現在B地点と呼ばれる場所です。杉原先生は相沢さんの案内で当初B地点を中心に細石器・槍先形尖頭器を発掘することを目指したが、なぜか、その向かい側の現在A地点と呼ばれる地点の発掘に切り替えた。その時の理由を述べたのが、この発掘報告書のこの個所である。
 しかし、A地点からは槍先形尖頭器・細石器を中心とする文化遺物は出土せず、ハンドアックスを中心とした岩宿T文化、ナイフ形石器を中心とした岩宿U文化の検出に成功した。B地点は二日目、三日目及び本発掘時に徹底的に調査されたが、何ら遺物の検出を見なかった。そこで、杉原先生は相沢さんの発見した石器を中心とした文化を岩宿V文化と仮称し、発掘報告書では?マークがつけられた。細石器・槍先形尖頭器の文化の解明は岩宿ではできなかったが、芹沢長介先生は、長野県馬場平遺跡で槍先形尖頭器が赤土の中から出土することを確認し、さらに上の平遺跡で槍先形尖頭器を中心とした文化が旧石器文化にあるということを実証した。また、細石器の文化については、長野県矢出川遺跡において、旧石器文化の最終終末期に細石器を中心とした石器文化があることを実証したのであった。このように、岩宿遺跡はわが国における旧石器文化の解明に大きく寄与した遺跡として重要な遺跡となった。
 その後、岩宿遺跡においても、岩宿ドームの建設時や、隣接駐車場建設時に発掘調査が行われたが、岩宿V文化にあたる遺物は検出されなかった。これは、これからわれわれが解明しなければならない課題であり、岩宿問題は今も終わっていないということをあらわしているのである。そして、岩宿遺跡出土遺物が一括して国の重要文化財に指定されているのに対して、この一番重要な岩宿発見の糸口になった石器は何の指定も受けていないのである。


恐怖の真夜中の岩宿での発掘

写真は国瑞寺山門入り口にある石柱「不許葷酒入山門」とあります。

「岩宿の第2回目の発掘の時,宿泊所のお寺の夕食がもりあがり,アルコール度が急上昇したことがあります。その際の話題が登呂遺跡のことだったのです。と,突然大塚初重氏が立ち上がり,岩宿の発掘地点が水で流れてしまうと発言,――たぶん初重氏は登呂とだぶったのでしょうが――それを救うのだといって真夜中の雨降りの中をスコップを担いで遺跡(第2地点)に向かいました。杉原先生は学生を見捨てることは出来ぬ・・・と小型スコップ(これはは明治大学考古学博物館に展示されていますネ)を手にそれに続き,さらに並み居る学生もゾロゾロしたがいました.唯一酒を飲んでいなかった小生は仕方なく懐中電灯を持ち,列の最後尾について歩いていたのです。ところが遺跡に到着する少し前に皆の姿が突然消えました。暗闇で前がはっきりしない状態で歩いていたので,小生一人を残して前の連中は全員崖から落下してしまたのです.崖の下は浅い水たまりと粘土で怪我はしませんでしたが,全員ドロドロ.小生は杉原先生のめがねを回収するのに苦労しました。」

(吉崎昌一先生のメールを転載させていただきました。この中にある小生とは吉崎先生のことです。原文の迫力が伝わるようにそのまま転載させていただきました。)


山内清男先生のなぐり込み

写真は現在の国瑞寺

 昭和25年の岩宿遺跡の第二回目の本発掘の際にまたまた、大変なことが起こりました。その日の発掘が終わって、宿舎の国瑞寺に引き揚げて遺物の剥片に整理番号を記入していた大塚初重氏の目の前にオート三輪が横付けされたのです。その中から血相を変えて飛び出してきたのは、旧石器反対論者の筆頭であった山内清男先生でした。「こんなもの旧石器ではない!!発掘を止めて東京へ帰り給え!!」と大きな声で叫けばれたということです。ちょうどおなじころ山内先生は桐生考古学会の薗田芳雄氏らとともに、杉原先生の発掘を否定するための発掘を岩宿遺跡の近くの桐生市普門寺遺跡で行っており、その帰り道に立ち寄られたのであった。杉原先生がどのように対応したのかは、記録に残っておりませんが、さぞかしビックリされたことだろうと推察されます。(『やっ、どぉもネ!』大塚初重先生頌寿記念思い出文集を参考にしました。)


考古学協会では岩宿は黙殺

 あの日、わたしは多くの質問を受けるだろうと予想したから、いろいろと準備して出席した。ところが発表が終わっても、シーンと静まりかえった会場では、だれひとり質問に立つものはなかった。まさしく無言の反対だった。そのまま黙々と散ってゆく人たちを前にして、わたしはアルタミラ洞窟壁画の例を思い浮かべていた。かつてわたしは、その国際会議の模様を原書で読み、印象深く思った記憶があった。そこにはこう書かれていた。「そのとき、かれ(ウィラノヴァ)の目に映ったものは、冷たく会場を去っていく聴衆の背中だけであった」と。そして、いま、わたしの前にも、そのままの光景があった。(玉利勲『発掘への執念』新潮社 1983)

 昭和24年10月25日、京都で開催された日本考古学協会で岩宿の旧石器について発表が行われたが、杉原先生の発表のあと全く反応がなく、そそくさと席を立つ人々の姿のみが見られました。また、杉原先生の上司でその当時明治大学考古学研究室の主任教授であった後藤守一先生も甲野勇氏らに「岩宿の旧石器なんてダメだ、晩節を汚すから杉原君の尻馬なんかに乗るな」というようにいわれた、といったはなしもあったようです。このように、岩宿、および我が国における旧石器文化の存在が認められるようになるのまでは杉原先生と芹沢長介先生の二人三脚が続いていったのであった。


うれしかった茶臼山遺跡の発見

 茶臼山遺跡の発見のいきさつについては藤森栄一先生の『旧石器の狩人』にくわしいのでここではかいつまんでお話しいたします。現在笠懸野岩宿文化資料館の館長の松沢亜生さんが高校生のときのことで、当時松沢さんは現明治大学学長の戸沢充則さんとともに藤森先生のところに集う考古ボーイでした。考古ボーイたちは藤森先生の諏訪考古学研究所を根城に方々の遺跡を発掘して回っていたのです。そんなとき、藤森先生の家のすぐ上の茶臼山で旧石器と思われる粗石器を拾ったのでした。藤森先生は「日本には旧石器はない。」と否定されましたが。あきらめきれなかった松沢少年は上京して先輩の明治大学生の戸沢充則さんを訪れ、東京の学者のところへ見せに行こうということになったのです。ところが、夏休み中ということで、ほとんどの学者が登呂の発掘に行っていて留守で、ようやく武蔵野郷土館の吉田格先生に会うことが出来た。石器を見せると眼の色を変えて実測をはじめた吉田先生をみた二人は、諏訪に戻ってきました。そして、ようやく重い腰を上げた藤森先生とともに諏訪考古学研究所はじまって以来の大発掘がはじまったのです。
 しかし、その当時藤森先生は寝たり起きたりの状態で、主力はもちろん諏訪考古学研究所の少年たちでした。そのとき、藤森先生は日本での最初の旧石器の発掘であると思っていたし、二人の少年の気持ちも同じだったのです。県営団地の工事はどんどん進んで、あと僅かの小丘を残すのみになりました。最後にこの小丘を平面発掘することとなり、戸沢さんは藤森先生の許しをもらって杉原荘介教授に手紙で知らせました。すると、翌日の真夜中杉原先生から
「茶臼山発見おめでとう!!。」という電話がかかってきました。杉原先生は岩宿発見以来、同じような遺跡を探していましたが、東京の茂呂遺跡では遺物が少なく、層位も不明確で反対論者を屈服させるほどの資料は得られませんでした。そこで、同じような旧石器時代の遺跡を目を皿のようにして探していたのです。そこに、親友藤森栄一先生からのうれしい知らせがあったのです。これは二重の意味での喜びであったに違いありません。そして、この茶臼山は発掘資料は豊富で、特に槍先形尖頭器やナイフ形石器の出土が多かったのです。そして、なによりも重要なことは、平面発掘が行われたということです。岩宿では平面発掘でなかったために層位の点で今一歩説得力に欠けていました。ところが、今度は正真正銘の平面発掘による出土ですから、さすがの山内清男先生も否定することが出来なかったのです。旧石器研究における信濃勢の猛追撃がはじまったのです。そして、我が国における旧石器文化は茶臼山の発見以降、ゆっくりと学界に受け入れられていくのであった。


俺は森本先生の遺言を聴いたのだ。

 戦後、杉原先生はまさに日本考古学会の牽引車としての役目を自ら引き受けられた。それは、戦前森本六爾先生の遺言を直接聴いたものとしての責任感がなせる技であった。時には強引ともいうべき論理の持って行き方や、一度思いこんだらあとには引かない面も見られた。しかし、六爾先生の理想、理論、夢、希望は杉原先生によって完成されたといえるのではないでしょうか。私は杉原先生の生涯をたどっていくうちにそのような結論に達しました。


自説の誤りは素直に認める。金木の偽石器問題。

 前期旧石器の遺跡として日本最古のものとなるはずであった、青森県の金木は太宰治の生まれた町である。ここで、杉原先生は初めて偽石器というものに遭遇する。大学から多額の予算をもらっておこなった発掘であったから(杉原先生の発掘の中で最大のお金をかけた発掘であったという)、いまさら石器ではないということはできない。先生は大いに悩んだ。そして、偽石器であると発表されたのである。

 一九五三年(昭和二八)、青森県北津軽郡金木「遺跡」の「石器」の場合、古い石器と新聞にも報じられ、地質学・地理学研究者も動員して勇んで発掘を始めた研究者自身が、調査なかばで石器ではなく自然石だと気がついて撤退。杉原荘介は勇気ある人だったと思う。自分の主張を堂々と撤回するなど、研究者にそうざらにできることではない。彼は書いている。「このような石器文化研究の出発途上にあるわれわれが、その最初の段階において、比較的早くこのような種類の経験をしたことは、これからの研究にどれだけ幸いするか分からないと思う」と。(佐原真先生『大系日本の歴史』1〜日本人の誕生 小学館より)


 

最後まで考古学研究に情熱を燃やす

グローバルな視点

「俺は弥生屋だ、俺は縄文屋だ、俺は古墳屋だなんていうのは嫌いでした。なんでもやれとよく学生にもいっていました。」(戸沢充則先生談『考古学者・杉原荘介』より)


あだ名は「旦那」

 杉原先生には、どこかに「先生」と呼ぶより「旦那」と呼ばせるものがあった。旦那衆のものの考え方というのは、合理性のある側面と、人情の厚い側面と、あるいは強引な側面というようなものがあるんです。杉原先生にもあるような気がするな。(李進煕さん「座談会・人間杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』より)


遺跡の保護に尽くす

「市川市は俺の第二の故里だ。杉原が市川にいても、遺跡の一つや二つ保存も出来やしないじゃないかということを絶対人にはいわせない。」(熊野正也さん「市川の文化財と杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』より)

 市川市内の三大貝塚である姥山、曽谷、堀之内の三貝塚、下総国分寺、須和田遺跡、鬼高遺跡らはいずれも杉原荘介先生の尽力によって保存され遺跡公園となっている。このように、自分の手がけた遺跡を完全に保存した学者は希有であるといえよう。私はこれらの遺跡を中学、高校時代に踏査することによって考古学を学んだ


杉原荘介はじめて頭を下げる

 堀之内貝塚の史跡指定、および用地買収については大変な苦労が伴った。特に、土地所有者のへの方々への説明には史跡とは何か、というところから説明する必要があった。杉原先生は大学教授・国文化財審議専門委員・市川市文化財保護審議会副委員長という肩書きをフルに活用されて、何が何でも保存するという体制へ持っていったのであった。そして、最後の決め手は、今まで誰に向かっても頭を下げたことのない杉原先生が、土地所有者にむかって両手を畳について頭を下げたことであった。(参考「市川の文化財と杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』より)


型式、学術用語のデパート杉原商店
写真は多久三年山遺跡にて(『考古学者杉原荘介』より)

「人によっては「杉原さんは型式の製造会社の社長」だなんて悪口言うのがいるのですけれども、土師器のいろいろな型式の設定でも、あるいは弥生の場合も少なくとも東日本の編年的な型式の設定は、ほとんど杉原さんが組み立てられたようなものなんです。」(乙益重隆先生談『考古学者・杉原荘介』より)

 ここでは、私の知っている杉原学術用語について挙げてみよう。(勉強不足(^^;; )で非常に数が少ないのですが実際は一冊の辞書が出来るくらいあるらしい。)

土師器型式名(ちなみに杉原型式では土師器ではなく土師式土器となり必ず「式」を入れる、「式」入れ忘れて大目玉を食った学生もいたらしい)「五領、和泉、鬼高、真間、国分」

時代名称「先土器時代、縄文式土器、弥生式土器、土師式土器」


土師式土器とよぶのがふさわしい

 これまで述べてきたように杉原先生は数多くの考古学用語の提唱をなさっておられますが、そのなかで学史的に重要なものについて少し、調べてみました。

 土師器という名称は杉原先生の師である後藤守一先生が『日本考古学』で定着させたもので、昭和初期にはすでにその名称が一般化していた。後藤先生の提唱以前は、鳥居邦太郎の「素焼土器」や弥生式土器と土師器の総称としての「埴瓮土器」(はにべどき)という名称があったが、「土師器」という名称を最初に用いたのは、三宅米吉である。時代名称を土器の名称を用いて決定すべきであるという考えの持ち主で、旧石器時代を先土器時代と呼び、古墳時代を土師時代と呼ぶ杉原先生は、土師時代の土器名称として土師式土器という格調高い名前で呼ぶことを提唱した。それと同時に、須恵器についても須恵式土器の名称を与えたのである。こうして、学術用語の製造会社杉原商店の社長である杉原先生はまたまた、新たなる用語を創出されたのである。


実は「岩宿時代」の提唱者は杉原先生だった。?

 現在「先土器時代」という呼び名は、「岩宿時代」というように呼ばれることが多くなりつつある。、この「岩宿時代」という名称を考えたのも杉原荘介先生である。それを1987年11月『大系日本の歴史』1「日本人の誕生」で佐原真先生が再提唱されたものなのである。もっとも、杉原先生のことであるから当然単に岩宿時代ではなく「岩宿式石器文化」という呼び名をつかったのであるが・・・・・・。

杉原荘介先生の時代名称の変遷・・・・「旧石器時代」(最初の新聞発表時)→「岩宿式石器文化」(『群馬県岩宿発見の石器文化』・『日本における石器文化の階梯について』)→「先土器時代」(『日本の考古学』T)

芹沢長介先生の時代名称の変遷・・・・「無土器時代」→「旧石器時代」
「岩宿文化・岩宿時代」の主な提唱者・・・・・・・八幡一郎、角田文衛、佐原真の各先生方。
その他の呼び名・・・・・・・・・・・・前縄文時代、先縄文時代、プレ縄文時代、
(坂詰秀一先生『日本考古学の潮流』 学生社 1990年によりまとめたものです。)


SUGIHARA’S  HYPOTHESIS”を破ってほしい(「杉原仮説」破ってほしい)

 杉原先生は1949年岩宿遺跡を発掘後、藪塚、茶臼山、上の平、矢出川の各遺跡を芹沢長介先生とともに発掘調査され、日本に旧石器時代があったということをあたりまえの事実にされた。しかし、青森県の金木の発掘で初めて偽石器というものに遭遇し、その後、旧石器のなかでも武蔵野ローム以前の前期旧石器時代(引用者注・芹沢長介先生は3万年以上を境に前期、後期に旧石器時代を分けた。)はなかったという仮説を1967年『考古学ジャーナル』第7号に発表したのである。すでに、1965年に、それまで用いていた「旧石器時代」「岩宿式石器文化」の用語をやめ、「先土器時代」の時代名称を提唱されておられた杉原先生はこの論文によって、前期旧石器否定論者の旗頭にされることとなった。しかし、この論文の真意はより活発な旧石器に関するより活発な論議の喚起を促したものであり、絶対的な前期旧石器の否定を謳ったものではないことは、多くの学者には理解されなかったこの「先土器時代」という名称は高校日本史教科書でも主流として1983年の杉原先生の死後も用いられた。そして、馬場壇、座散乱木遺跡の発見によって誰もが前期旧石器の存在を疑うことができなくなり、1989年の学習指導要綱の改訂が行われるまで「旧石器時代」よりも重く用いられたのである。(旧石器時代名称論へ)

「いずれにしても,日本に下部旧石器時代あるいは中部旧石器時代の文化の存在を認めるためには,原人あるいは旧人の活躍に期待せざるを得ないのである。そこで,わたくしは日本においては下部旧石器時代・中部旧石器時代の文化は存在しなかったであろうという仮説をここに提案したいのである。

 もし,それらがあったとしても,それはきわめて存在率の少ないことである。わたくしも,そのようなことが絶対にあり得ないということをいっているのではない。わたくしがいおうとしていることは,日本に下部旧石器時代あるいは中部旧石器時代の文化のあったことを主張するものがいたならぱ,それらの石器を製作し,そして使用した主人のことを充分に考えてほしいということである。そして,日本のような島国においては,そのような人科の動物の生存がきわめて限定された在り方をするのだということをよく知っておいてほしいということである。 要は,下部あるいは中部旧石器時代文化の存杏が論じられるとき,より慎重な学風が起こってくるならば,それだけでもわたくしの希望が満されるわけである。(杉原荘介「”SUGIHARA’S HYPOTHESIS”を破ってほしい」『考古学ジャーナル』第7号 1967年)


杉原仮説の真意について

 先生のふだんの行動には激することも甚だ多かったようにも覚えているが、必ずしもそれは短気だとか気分屋的なものではなく、世間的な常識と先生の個性とがうまく合致したこと以外に対しての激し様であったのではなかろうかと思っている。このことは先生がなくなられて特に感ずるようになった。先生が後年「私の仮説を破って欲しい」といった主旨の文をものされたのも、相手――前期旧石器を過急に追求する者に対して、もっと慎重にしてほしいいった示唆をしたものと考えられないだろうか。そしてその裏には杉原先生自身が、前期旧石器を全く認めないという立場での物言いではなく、ある種の存在する希望と推測があった上での発言に違いない。
(横田義章さん「いま思うこと」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)


小原庄助さんが杉原荘介さんに

 各地に遠征した明治大学考古学研究室の通称杉原飯場は、夜になるとお酒が入ったミーティングになるのが常でした。そして、先生お得意の歌とダンスがはじまるのです。歌は湯島の白梅や、定期入れの中に忍ばせた歌詞を見ながら歌う美空ひばりの真っ赤な太陽が十八番でした。また、会津磐梯山もお好きで、この歌を歌うときには、小原庄助さんのところが杉原荘介さんに替えて歌われたそうです。学生がこの歌を歌うとき、先生はニコニコしながらこの替え歌を聴いておられたそうです。


考古学の本質を一言でいうならば

「歴史は時間の系列の中で研究する学問であり、考古学は形をみる歴史学」

『原史学序論』のなかでも規定しておられますが、杉原先生の歴史観をもっとも端的にあらわした言葉として紹介されています。(宮下健司さん「杉原先生の思い出」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年より)


晩年、泣きながら奥さんに感謝

 突然涙を流して、「女房には苦労をかけたなァ。こうしてこれたのも女房のおかげだ」(石川むつみさん「杉原先生の思い出」『考古学者・杉原荘介』より)

 若い頃は、「富士アイス」で近寄り難かった杉原先生も、晩年学生たちとの飲み会の席で明子夫人への感謝の言葉を述懐されておられます。恐怖のスコップ(円匙ともいう)を女房より大事だ、といっておられた杉原先生であったが、心の底では非常に夫人に感謝されていたことのあらわれではないでしょうか。


白のタキシードで真っ赤な太陽を踊る

 ダンスがお好きだった公式の場での最後のダンスは、昭和55年の主任教授を大塚先生に譲る会でのことだった。白のタキシードをお召しになられた元気な杉原先生は、美空ひばりの「真っ赤な太陽」を踊られたそうです。その時は、非常に上機嫌だった先生は、とても格好良かったに違いありません。しかし、このころから先生の健康は急速に害され、公式の場でダンスを踊られたのはこれが最後になったのです。


栄一先生の死に際して

 「君の骨はこうしてボクが埋めるけど、ボクの時はどうするんだ。」とつぶやいて骨箱を撫でておられた。その首筋の一抹のかげりに私は(栄一の分まで長く生きて下さい)と祈ったのだった。(藤森みち子さん「考古学に捧げた命二つ」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)荘介先生は栄一先生が書いてくれると約束した『杉原荘介伝』の完成を楽しみにしておられたという。しかし、それは完成することなく、突然心臓麻痺で栄一先生は旅立たれた。杉原先生は栄一先生の死後、長野県考古学会の顧問として『藤森栄一賞』の選考委員長を4回にわたってつとめられた。


藤森君を偲んで(弔辞)

 森本六爾先生をとりまく若者の中で、おそらく君が一番森本的であった。この言葉が正しいかどうか、まだよく解らないが、感性の認識論といっても良いかも知れない。それは森本先生がそうであったように、君も効率を高めた。それは、遺跡や遺物が自然物でなく、人間の作品であるからだ。(中略)しかし、生きていた40年、真実の友としてつきあったことはわれわれの宝であった。われわれのような仲よしは、外にはいないだろう。君もそう思うだろう。よかった、よかったとわたくしは思う。どこかで君もそう思っているだろう。やはり二人は同じ世界にいるのだ。 さきにいって、静かにねむってくれたまえ。(「藤森君を偲んで」『信濃』26-4)


最後まで講義に情熱を燃やす

 考古学各説UAでは、弥生式土器と青銅器についての講義で、テキストには先生がこれまで全エネルギーを注ぎ込まれた弥生時代についての研究が集約された、『日本農耕社会の形成』が使われました。この頃は、先生のお身体かずいぶん弱っていらっしゃったらしく、講義も休講が多くなり、また、講義されても話が跡切れがちでしたが、誰ともなくクラスの者が持参したお茶を飲みながら、一所懸命に講義して下さったことは、印象深く思い出されます。これらの講義を通して、我々は、先生の学問、研究に対する尽きることのない情熱の中に、先生の偉大なる業績の片鱗をみた思いがしました。この頃でしょうか、お身体の弱った先生を心配して、クラスの同志が集まって千羽鶴を折り始めたのは。(松本幸人さん「厳しさと、優しさと」『考古学者・杉原荘介』より)


藤森栄一賞初代選考委員長をつとめる

 藤森栄一さんが亡くなられたあと、杉原先生はとてもガッカリしておられました。そして、栄一先生の学績の継承と発展のために長野県考古学会が設けた藤森栄一賞の初代選考委員長をつとめられたのでした。その栄一賞の第一回の受賞者は椚國男さんで椚さんは多摩考古学研究会に所属し、藤森栄一先生の指導をうけて地域に密着した研究活動をおこなったことが評価されたのでした。また、『古墳の設計』という本をあらわし、はじめて前方後円墳の築造企画を解明したことが受賞に結びついたのでした。
 ところが、この第一回の受賞者はすでに別な方に当初は予定されていたのである。それは、なんと杉原先生ご自身が受賞したかったということなのです。それほど、親友である藤森先生を記念したこの賞をなによりもすばらしいもののであると感じておられたのです。


「自分のやるべき事は全部やった、思い残す事はない。」
写真は最晩年の杉原先生(ご自宅にて『考古学者・杉原荘介』より)

 杉原先生はなくなられる3ヶ月前、『佐賀県多久三年山における石器時代の遺跡』(『明治大学文学部研究報告』第9冊)を刊行された。この報告書は1960年に杉原先生によって発掘調査された遺跡のものである。考古学者としての責務として、遺跡の発掘調査報告書の刊行を強く意識しておられた先生は、病身に鞭を打ち、最後の力を振り絞るようにして、本報告書を刊行されたのである。そして、その完成の時に「これで私がなすべき報告の義務のある仕事は、すべて終えることが出来ました」という趣旨の手紙を添えられて、全国の研究者のもとへと送られたという。藤森みち子さんは「自分のやるべき事は全部やった、思い残す事はない。」といってなくなられた荘介先生と「やることがいっぱいある、時間がない」と嘆いて逝った栄一先生のことについて、乙益重隆さんに問いかけたら、横におられた戸沢充則先生が、「藤森先生は不器用だったんですよ。」と答えられたと、語っておられます。(藤森みち子さん「考古学に捧げた命二つ」『長野県考古学会誌』―杉原荘介氏追悼号― 四八、昭和五九年)このことは、最後まで自分の持てる可能性を追求した藤森栄一と、自分が追求した事実の必然性の解明に生涯を捧げた杉原荘介を象徴するような言葉ではないかと私は思います。


まぼろしの『東京湾』
写真は句作中の杉原先生(『考古学者杉原荘介』より)

 すべてを報告し終わった、その荘介先生も最後にやり残された仕事がありました。『東京湾』という先生の長年の研究の総決算ともいえるべきもので、その出版に使用する紙も準備されておられました。しかし、その本は出版されることはありませんでした。不意に先生を襲った心臓発作が命を奪ったのです。昭和58年9月3日68歳の生涯でした。すでに、何度も入退院を繰り返されておられた先生は、ご自身の死期について予期されておられたと思いますが、そのあまりの突然の死は多くの人々を悲しませました。残暑の厳しいなか、先生を送る葬列は長く長く続きました。そして、一つの時代が終わったことを感じたのです。


書かれなかった「続・杉原仮説を破ってほしい」

 杉原先生の死後様々の追悼文か出されたが、『考古学ジャーナル』223号の編集後記にあの有名な「杉原仮説を破ってほしい」という論文の執筆裏話が載っていたので、紹介いたします。
『考古学ジャーナル』創刊後、何か記事を書いていただけるようにお願いされていた杉原先生から送られてきたのが、あの論文だったということである。そして、なくなられる一年ほど前、続編を書いてください、という編集部の頼みを快諾された先生は、密かに「続・杉原仮説を破ってほしい」を執筆されておられたということです。そして、来年の春頃には原稿を届けられると思う、というお言葉が編集部に届けられた。しかし、春を待つことなく9月1日先生はお亡くなりになられたのであった。もし、書かれていたら、どのような論文になったであろうか、今となってはうかがうすべもないが、杉原先生の面目躍如たる学史に残る名論文になったに違いない。
破られた杉原仮説へいく


破られた杉原仮説

 座散乱木遺跡の第三次発掘が行われ、昭和58年出版された報告書で岡村道雄さんは、「前期旧石器存否論争に終止符を打たれた。」と総括された。杉原先生が突然の心臓発作で亡くなられたのは昭和58年9月1日、そうした学界が騒然とするなかの出来事でした。先生は最後までこの座散乱木には興味をもっておられ、ご自分の仮説の行方を注視しておられました。そして、晩年には前期旧石器をお認めになられる方向へとご意見が傾いておられたらしい、という話が伝わっております。そのことを公式に表明されるために、再び『考古学ジャーナル』誌上に「続・杉原仮説を破ってほしい」を掲載するためにご準備をされておられました。その論文が、春頃に完成予定である、という知らせが杉原先生から編集部へ届けられたそのあとすぐに、先生は冥界へと旅立たれました。それは、あたかも杉原仮説の永遠性を象徴するがのようでした。ご子息の重夫さんは、座散乱木遺跡を発掘した明治大学出身の鎌田俊昭さんの前で泣きながら『座散乱木遺跡発掘調査報告書V』のコピーを棺のなかに入れました。それは、杉原荘介という戦後日本が生んだ最大の考古学者の最後でした。そして、昭和62年5月の連休に藤村新一さんと東京都埋蔵文化財センターの舘野孝さんの合同巡検により、東京都稲城市の多摩ニュータウン471B遺跡においてTPと通称いわれている東京軽石層直上から約5万年前の石器が発見され、28日から発掘調査が行われた。発掘調査の結果南北6メートル東西2メートルの範囲から5点の旧石器が発見され、6月16日新聞記者発表が行われた。この結果、座散乱木以後も、層位の確かな南関東で出土しない限り前期旧石器の存在は認められないという見解を示していた一部の学者たちに前期旧石器時代を完全に承認させ、ここに前期旧石器時代存否論争は完全終結したのである。このとき、杉原先生の後継者の戸沢充則さんは「杉原仮説が敗れたのは確か。しかし、先生は、地層解釈がしっかりしている関東ロームでの発見に、十分納得され、あの世で喜んでおられるはず」というように毎日新聞のインタビューに答えている。また、加藤稔さんは『論争学説日本の考古学』で杉原先生の旧石器研究史における大きな足跡を高く評価し、杉原仮説は「破ってほしかった」仮説であるとまとめられた。

(現在多摩ニュータウン471B遺跡発見の前期旧石器については捏造であるという疑惑があり、東京都からも灰色であるという報告がなされています。なお、同遺跡の発掘調査報告書は刊行されておりません。)

 


まとめ

私のあこがれだった杉原荘介先生

 私は中学高校時代を千葉県市川市の市川学園で過ごした。市川市は遺跡の宝庫で、堀之内・曽谷・姥山の貝塚や須和田遺跡や鬼高遺跡など多くの遺跡に囲まれている。これらの遺跡を見学することから、考古学の勉強を私ははじめた。そして、そのすべての遺跡の発見発掘者は、杉原荘介先生であった。私が初めて見学した貝塚は加曽利貝塚であり、初めて見学した発掘現場は、小学校5年生の時に飛の台貝塚の発掘調査であり、こちらの発見者も杉原先生であった。昭和58年4月に杉原先生の最後の考古学協会の総会が明治大学の和泉校舎でおこなわれたとき、私は初めて研究発表会を聴いた、長岡京の発掘に執念を燃やす中山修一先生の発表に感動した記憶があるが、残念にも杉原先生の記念講演は聞くことが出来なかった。その年に杉原先生がお亡くなりになられたときは、高校2年生であったが深い絶望に襲われたことを覚えている。(97/11/08六爾記す)
第49回総会目録のもくじは
こちらです。杉原荘介先生「稲作文化における大陸の源流」が目次にのっております。杉原先生のこん身の力を込めた発表になる予定であったが、この発表は中止になり、大塚初重先生が発表された。


あるアマチュアの思い出

藤森先生の『石器と土器の話』のことを思い出していたら、考古学をはじめた頃のことを思い出しました。

最初に遺跡見学をしたのが、小学校4年生の社会科見学で隣町の千葉市にある加曽利貝塚で竪穴住居、貝層にびっくりしたのです。(加曽利貝塚を守る運動をされたのは杉原先生です。)それから、5年生になり社会科クラブに入って遺跡見学に行きたい顧問の先生にいうと、高根木戸貝塚の発掘に学生時代参加したことのあった顧問の先生は、近くの飛の台遺跡の発掘の見学に連れていってくださいました。見学が終わって、遺跡のことを調べていると、「明治大学の杉原荘介教授によって発見された遺跡である。」という文句があったことを思い出します。

それから、中学、高校時代を通じて、遺跡に囲まれた生活をしていたので、いろいろと近くの遺跡に行ったような気がいたします。そのころ、社会部というちいさな歴史クラブの部長をしていた私は、新入生を引き連れて、土曜日の放課後、我が町の遺跡巡りに出かけました。 最初に行ったのが、堀之内貝塚で、市川考古博物館、市川歴史博物館もあわせて見学、そして、下総国分寺、須和田遺跡、と続きました。その、すべての遺跡、博物館で見たのが「杉原荘介」という名前だったのです。どこの遺跡に行っても必ず遭遇する杉原先生とはいったいどういう人なんだろう、と思いました。

図書館で、調べました。森本先生の最後のお世話をされた方である、ということがわかったのはそれから、すぐで、我が町市川にお住まいとのこともわかりました。そして、今明治大学の先生をされているということも、知りました。 そんなとき、日本考古学協会の48回の総会が、明治大学の和泉校舎で行われるということを知り、顧問の先生に頼んで連れていってもらったのです。

本当は、そのとき杉原荘介先生の記念講演を聴くことが出来たはずなのですが、学校が終わってから行ったので、午後の部だけになり、記念講演は聞くことが出来なかったのです。(あとで、先生はご健康を害されたため記念講演は中止になったらしい、という話を聞きました。)

よし、おれも明治に行って考古学をやろう、と決心したのはそのときでした。 その、次の年に先生は69歳でなくなられました。体全体から力がぬけて、ぼーっとしてしまうような、衝撃でした。この悲しみが最初の挫折だったかもしれません。 

明大受験に失敗したあの日、とぼとぼと肩を落とし、涙ぐみながら、かつて杉原先生が歩かれたであろう、和泉校舎の正門へ向かう路を歩きながら、自分の前にあるのは絶望だけであると再確認しながら、こころの中で先生に「さよなら」を行ったことを思い出します。

多磨霊園の先生のお墓に詣でながら、私は森本六爾、杉原荘介、藤森栄一の三先生方がいらっしゃらなかったら、どんなにつまらない人生だっただろうと再確認したのでした。(RXE12761 六爾 「あるアマチュアの想い出A」 98/03/09 03:10 NIFTY-Serve「考古学の部屋」ログより。)

 


岩宿遺跡発見のころ

 岩宿遺跡の最初の発掘写真

右側から、杉原荘介先生、芹沢長介先生、岡本勇先生、相沢忠洋先生、地元高校生の相沢さんの友人の加藤正義さんと堀越靖久さん
(撮影・桐生越中屋旅館主人)
(相沢忠洋記念館提供)

 「ハックツニセイコウ タダナミダノミ」

1949年の夏も、僕らは登呂の発掘に参加していた。ある日、芹沢さんから中石器らしいものがみつかったという手紙が杉原先生のもとへ届いた。このことを先生から聞いた僕は、休暇の一日を利用して家に帰ったついでに、青山に芹沢さんを訪ね、その石器を見せて頂き説明をきいた。相沢さんという人の発見されたものであり、いくつかの理由から中石器かも知れないということを真剣に話された。また、東京ではなん人かの学者が、すでにみているものだということでもあった。
 登呂の発掘が終って、早速計画された予備調査に、僕はその馬力をかわれてか参加させてもらった。あの発掘の感激は生涯忘れることができないだろうし、当時の泥にまみれたフィルドノートの記事も、まだペンの色があせてはいない。あれからもう足掛けて10年になろうとしている。当時の事件を研究史上に正しく位置づけていくことが、いまあらためて必要となってきた。岩宿のことについては、まだ10代の学生の眼でとらえたいくつかの記録が、今日なお僕の手もとに残されている。以下も、その一つである。

◇     ◇     ◇

 杉原先生、芹沢さん、相沢さん、それに私を加えた一行四名が、新桐生の駅に着いた頃は、既にあたりは暗夜のとばりにとざされていた。渡良瀬川の大きな橋を渡ってすぐのところに、つい先日の洪水で被害をうけたという場所の悲惨な状況が、暗闇のなかにもはっきり感じられた。相沢さんがそこで仕事をされているという岡田氏の家にしばらく立寄り、ただちに一行は旅館越中屋へと赴いた。晩飯を済ませてのち、二階の一室にくつろぎながら、明日の発掘についての種々の打合せをした。途中、相沢さんがトウモロコシの焼いたのを何本か買ってきた。杉原先生の好物であるという。良くみのったトウモロコシを囓りながら、皆同じように口ばしる言葉は、ただ明日の成功を祈る声のみであった。
 1949年9月11日。明けて待望の日は訪れた。「日本の考古学史に革命的なエポックは画されるか。」曇天の桐生の空を仰ぎつつ、私達四名とさらに相沢さんの良き手助けである堀越・加藤両君を加えた一行は、一路現場に向った。岩肌の聳えたつ東方の丘陵を金比羅と称し、神社のあるこんもりとした老樹の茂る西方の丘陵を稲荷山といい、目的の現場はその二つの丘陵が裾を合わせて連なった部分である。大きくはこの二つを総称して岩宿小丘とよぶことにした。
 道路を作るために切崩された、崖の両側には地層の断面がみられる。相沢さんによれば、ローム層の下端から遺物が出るらしいということである。ただちに発掘が開始された。断面を掘っていくのである。胸は高なり、腕は振った。手にもつシャベルは何万年前に堆積したのか、幾分硬いローム層下の土の中に鋭くめりこんでいく。だが、意図する石片すらもなかなか出てこない。やがて、ブルブス(注:bulbsのこと)を有する石片を発見したが、これだけでは私達が求めようとしている重要な問題を確認づけるには、未だ何の価値も有しないであろう。(中略)いつ雨が止んだかはしらなかった。時計は四時三〇分を示していた。「五時までやろう、あと三〇分だ」杉原先生はいった。ラストヘビー、緊張の度はさらにひきしまり、ふるうシャベルの音は高かった。突然、先生のシャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。移植ゴテで周囲を掘りつつある先生は、その露出した青い石の一部をたたいて、「旧石器の音を聞けよ」と冗談ながらに笑いつつ、煙草に火をつけて、深くパイプをすいこんだ。取りあげた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。時まさに四時五〇分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変わっていた。今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、もはや何人も否定しはしないであろう。たとえそれが人工であるといわれるブルブスの石片をいくつ集めたところで、まだ私には可能性しか信じられなかったのに、この一つの石器の出土は夢かと思われるほどに確実性を教えてくれた。もう何も語ることはない。すべては喜びであった。「ハックツセイコウ タダナミダノミ」とその翌日研究室へうった杉原先生の電文は、ひとり先生の心のみをあらわすものではなかった。赤城の山の、また名も知れぬ関東連山の紫色にかすむ雄姿が夕闇を迎えはじめた頃、私共は意気高らかに遺跡を離れた。日本の考古学史における輝けるエポックメーカー達は、ただその感激について語りながら、岩宿の駅へ急いだ。汽車をまつ間、駅頭を行き戻りつする先生は、その時涙を流したという。
(岡本勇「研究史 一九四九年九月一一日のこと」『考古学手帖』2、1958年より)

岩宿遺跡発掘の回想・・・相沢忠洋先生・芹沢長介先生・杉原荘介先生の回想はこちらへ 


岩宿発掘裏話

杉原荘介の独断でそれは始まった。

そして七月下旬頃であったろうか、切通しのローム層断面からグラビア写真に示したガラス質の透明な黒曜石製の石槍を一点発見した。
 相沢はこの石器を持って酷暑の東京へ再びペダルを踏んで出かけて来たのであった。八月七日午後、まずS教授宅へ行き、夕刻筆者の家へそれらの遺物を持参して訪れた。(中略)芹沢長介も当時青山にあった家から下北の話しを聞こうと筆者宅を訪れたところであったが、相沢採集の黒曜石製の石槍、石片などを二人で一つ一つてにとって見て、二人で縄文土器文化の時期の石器には見られぬ特徴のあることを確認した。筆者が翌八日から登呂遺跡の調査に参加するので、帰京後九月になって相沢宅を訪れ、二人で実査しようという約束をしたのであった。
 筆者は八月三一日、登呂の調査から帰京したが、登呂、下北の撮影写真の整理、その他で数日雑務に追われる毎日であった。その間九月八日に相沢が上京し、拙宅へ立寄っている。このとき、芹沢を介し明治大学で杉原荘介に逢い、岩宿発見の石器類を杉原に預けている。そして、九月十一日筆者が藤田亮策、清水潤三らと千葉県八日市場市へ縄文時代後期の独木舟の調査に出張した日、杉原、芹沢、岡本勇の三名が相沢の案内で岩宿におもむき、第一回の試掘調査を実施したのであった。
 杉原はこの重大な発見を明治大学考古学研究室で独占しようと考え、一〇日夜の日本考古学協会の委員会席上を行先を聞いても告げずに出発、芹沢が筆者との約束もあると注意したが、これもふり切って内密裡に出かけたという。
 十二日、後藤守一教授の机に「ハツクツセイコオ」の電文あり、筆者が「杉原さん岩宿に行きましたね」というと、驚愕し、「どうして君はそれを知っているのかね」とのこと。「実は八月七日、相沢君が私の家に来て、芹沢君と私で行く約束をしたのですが」と答え、後藤教授も諒解されたのであった。

杉原の行為は人を出しぬき、友情を裏切ったようにも取れるが、猪突猛進の杉原でこそ岩宿の試掘を機として、芹沢と二人でわが日本にも縄文土器文化以前に土器を保有しない先土器文化、旧石器文化の存在を明らかにする道を切り開くことができたのであり、筆者と芹沢のコンビでは開拓が今日のように急速に進まなかったと思うのである。
 日本旧石器文化の開拓は、相沢の注意力と杉原の決断、芹沢の綿密な思考が相俟って、今日の成果を達成したのである。
 岩宿以降の旧石器文化研究の展開についても記したいが、紙数も限定されており、ここには岩宿遺跡発見から調査までの裏話を、詳細に記録するに止めておく。
(江坂輝弥先生のお話による・江坂輝弥「考古学戦後二十五年史」『歴史読本』1970年7月号より)


杉原先生のスコップがあたった跡のある石器
(写真は朝日グラフ別冊『戦後50年古代史発掘総まくり』より)

 左の写真の左側の石器が杉原先生が岩宿の試掘で発掘したハンドアックスで現在一括で他の石器と共に重要文化財に指定されています。この石器の上部の平らな面に斜めのキズがあります。このキズは普段は明治大学考古学陳列館で展示されている状態ではよく見えませんが、私が実見したところでは、かなり大きなもので1センチほどあります。これが、先生が「旧石器の音をきけよ」と高らかにスコップを振り下ろしたあのときに出来たキズなのです。また、このときに振り下ろしたスコップ(あの恐怖の円ピです)も同時に展示してあります。この石器は現在明治大学考古学陳列館と笠懸野岩宿文化資料館のどちらかに展示されております。(レプリカと本物を両館で交代しながら)また、左側の石器(杉原石器と呼ぶ)は杉原先生が東大に講師で行かれておられた際に背広のポケットに無造作にいれておられて、講義の際に何気なく「この石器だよ」とお出しになられたそうです。(笠懸野岩宿文化資料館での取材による)そのために、この杉原石器は手ずれなども加わり、さながら磨製石器のようになっておりますが、れっきとした旧石器です。ただ、この石器の下側の刃の部分は当初から磨かれており、このように早い時期に発見された石器が局部磨製石器であったことが、その当時の学者たちに旧石器時代の存在が理解されなかった一因でもあった。山内清男氏の反論もこの点から火がついたのである。日本の旧石器文化は世界最古の磨製石器文化であったということが定説となるまで、長い年月がかかることになる。


幻の岩宿日誌は存在するのか

 考古学という一見、ロマンと冒険に彩られた学問の実体は、嫉妬と羨望の学問であった。したがって、発見、発掘に対する妬みなどからくるとんでもないことは、たびたび発生した。岩宿遺跡が世に出るまでの杉原先生のご苦労は、とても筆舌を尽くしがたい。ただ、今いえることは先生は世の中のあらゆる非難、中傷を一心に背負うご決心であられた、ということである。そのことについては、先生はなにも書き残されておられないが、大勢の学者の非難に耐え一言も愚痴らしいことも語らずにおられたということは事実である。そして、そのほかの遺跡の発掘調査日誌が完全に保存されている、明治大学考古学陳列館に岩宿遺跡の発掘日誌だけが見あたらないのも事実である。岩宿が世に出るために明大を去った方もおられた。岩宿で相沢忠洋さんが最初に発見した槍先形尖頭器は長いこと世に出なかった。(岩宿遺跡の発掘報告書に解説なしで実測図のみ載っている)そして、他の発掘資料が1975年に一括して重要文化財に指定されているにもかかわらず、現在までもその石器は何の指定も受けていないのも、何かの事情をあらわしているのではないだろうか。その真実は杉原荘介先生によって封印された、幻の岩宿日誌がそのすべてを語ることができるのではないだろうか。いつの日か公開されることを私は強く願っているのである。


杉原先生のお墓参り こちらをクリックしてください。

 杉原先生のお墓は東京都三鷹市の多磨霊園にあります。私は97年10月23日にお墓参りをいたしましたので、そのときの様子をご紹介いたします。

参考 こちらをクリックして下さい
なぜか似ている二つのお墓たち  森本六爾先生と杉原先生のお墓のデザインはなぜか似ているその謎を探ってみました。


終わりに

 私の思いこみの激しいページになってしまいましたが、ひとまずこの辺で終わりにしたいと思います。引き続き、まだまだこのページは拡大していきますので、杉原先生に関する想い出をお持ちの方は、メールをいただければ幸いです。なお、こちらのページを制作するにあたり、藤澤一夫先生には写真のことについてご教示をいただき、また吉崎昌一先生には岩宿発掘に関する貴重なお話をいただきました。坪井清足先生には杉原先生のお墓のこと、226事件のことなど教えていただきました。その他、多くの方々のご協力をいただきました。この場をお借りして御礼申し上げます。

参考文献

 藤森栄一   『藤森栄一全集』1−15巻 学生社
 杉原荘介   「原史学への意志」『原史学序論』葦牙書房 1943
 直良信夫   『近畿古代文化叢考』葦牙書房 1943
 江坂輝弥   「考古学戦後二十五年史」『歴史読本』1970年7月号
 杉原・芹沢・吉崎他『シンポジウム日本旧石器時代の考古学』学生社 1977
 芹沢長介   「杉原荘介教授の訃報」『考古学ジャーナル』223 1983
 岡本勇    「一九四九年九月一一日のこと」『考古学手帖』2 1958
 玉利勲    『発掘への執念』新潮社 1983
 長野県考古学会『長野県考古学会誌』48―杉原荘介氏追悼号― 1984
 大塚初重編  『考古学者・杉原荘介』吉川弘文館 1984
 佐原真    『大系日本の歴史』1〜日本人の誕生 小学館
 坂詰秀一   『日本考古学の潮流』 学生社 1990
 朝日グラフ別冊『戦後50年古代史発掘総まくり』
 大塚初重   『やっ、どぉもネ!』大塚初重先生頌寿記念思い出文集 明治大学 1997

その他、杉原先生の著作からは多数引用させていただきました。

取材協力機関

大阪府弥生博物館
富士見町立井戸尻考古館
慶応大学考古学研究室
笠懸野岩宿文化資料館

取材にご協力いただいた方々(50音順)

江坂輝弥先生、鎌田俊昭先生、小林公明先生、椚國男先生、杉原吉直さん、坪井清足先生、藤澤一夫先生、吉崎昌一先生、ニフティサーブ「考古学の部屋」の皆様


先頭へ戻る

六爾の博物館入り口に戻る