森本六爾の志を継いだ人々


  藤森栄一

 一般に知られている森本六爾の弟子のなかでももっとも有名な方で、『森本六爾伝』の著者としてしられている。一生を在野の考古学者として送られたが、多数の著書を残された。そのなかでも、『かもしかみち』は有名でこの本を読んで考古学の道へ入られた方は数知れない。

 浅田芳郎

 六爾先生の考古学研究会以来の同人であるが、途中で六爾先生と袂を分かち独自の道を歩む。しかし、直良信夫氏によれば六爾先生の弟子のなかでもっとも六爾先生に傾倒し、声から筆跡歩き方まで似ており、後ろ姿では六爾先生と見間違えるようであったとされている。晩年、六爾先生と袂を分かったことを悔やまれ、 『考古学の殉教者』という森本六爾伝を著された。

 小林行雄

 事実上の学問的に六爾先生の研究を大成された方で、京都大学で戦後長年にわたって考古学教室を主宰した。邪馬台国問題について考古学上から同氾鏡理論をもって裏付けを与えた。

  杉原荘介

 東京考古学会の東京での事実上主宰者であり、小林行雄とともに学問上での六爾先生の研究を纏められた方である。登呂遺跡の発掘、岩宿遺跡の発掘などその学績は計り知れない。

 坪井良平

 草創期から考古学研究会同人として、経済的な面を含めて六爾先生を支えた。六爾先生の没後は藤森栄一、小林行雄を指揮して『考古学』の刊行にあたる。1990年覆刻された 示人社版『考古学』は氏の所蔵していたものを基にしたものである。前奈良国立文化財研究所所長の坪井清足氏は良平氏のご子息であられる。

 末永雅雄

 橿原考古学研究所を創立し初代所長に就任する。唐古遺跡を発掘調査し、森本先生の仮説を実証された。また、森本先生の提唱した、「飛行機からの考古学」を実践され、『古墳の航空大観』としてまとめられた。

  藤澤一夫

森本先生が臨終の際に「藤澤君赤い唇をしているね」と言い残された。森本先生はとっても藤澤さんに会いたかったのである。のちに、歴史考古学の分野に大きな業績を残した。 


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