本ホームページは考古学者森本六爾先生を紹介する個人的なホームページです
準備中の部分も多いですが、よろしくお願いいたします


「一粒の籾、もし地にこぼれおちたらば、遂にただ一粒の籾に終わらないであろう。

本書はこの一粒の籾の貴重さを、わずかに例示したものにすぎないものである。本書に示した実例か不幸にして忘れさられようとも、本書以後、人々に弥生式文化における農業問題の重要性が理解され、世の埋もれた資料を見かえす人々の多きを加えるならば、編者の望は一応みたされたというべきであろう」                   

『日本原始農業』より


森本六爾(もりもとろくじ)とは 

唐古遺跡の楼閣状建物
(作者撮影)

 日本のアマチュア考古学者として、最高の業績をのこされた方で、1903年(明治36)に奈良県の桜井市に生まれました。「東京考古学会」を結成され雑誌『考古学』発行されました。昭和8年その当時の学界でとの学者も考えなかった「弥生時代に稲あり」という考えを『日本原始農業』という論文集として発表され、学界に一大センセーションを巻き起こしました。これが、巻頭に掲げたものです。しかし、生前この考えは誰にも相手にされませんでした。そして、最大の理解者であり、協力者であったミツギ夫人とともに1936年(昭和11)わずか32歳という若さでなくなられました。

しかし、なくなられて10ヶ月後、昭和11年の12月に奈良県の唐古遺跡の発掘調査がおこなわれ森本夫妻が命がけで追求してこられた「弥生時代に稲あり」という考えが実証されました。そして、弟子の藤森栄一、小林行雄、杉原荘介らによってその考えは受け継がれ、現代日本考古学の父ともいわれるべき存在となっています。


ごあいさつ 

「六爾の博物館」館長 

はじめまして、本日はようこそ「六爾の博物館」へ。

 考古学を学んだことのある方でしたらば一度は必ず、「森本六爾」(もりもと ろくじ)の名前は耳にしていることと思います。そして、藤森栄一先生の「かもしかみち」を読んで考古学の道へ入られた方も、多数いらっしゃることでしょう。私も、その一人でした。しかし、現在インターネット上には様々のホームページがありますが、考古学関係のページで森本六爾についてあつかったページは全くありません。また、高等学校、中学校の歴史の教科書にもまったく登場いたしておりません。これは、間違っていると思います(その後の調査で1種類だけ登場している教科書があることがわかりました。)
 かつて、「森本ミツギという一人の女性教師の収入で一国の考古学の学会が運営され、その決死の働きで一考古学者が、パリへ留学したことなど知っている人はないだろう。」という藤森栄一先生の言葉を借りるまでもなく、どう考えてもおかしいのではないかと思います。
 また、最近の学界では一部に森本六爾先生の学績を無視するような動きも出てきています。こうした現状を少しでも改善し、一人でも多くの人々に森本六爾先生及びミツギ夫人の生涯を知っていただくために平成9年5月20日、この「六爾の博物館」を開館いたしました。

館長あてメールはこちらにどうぞ
ロクジ
RXE12761@nifty.ne.jp

 私は森本六爾先生の研究を趣味にしているアマチュアです。活動は、NIFTY-Serve歴史フォーラム本館 (FREKISHI)「考古学の部屋」でロクジというハンドルネームで登場しています。また、平成10年8月5日より歴史フォーラム郷土館の18番会議室「歴史を綴った先人たち」の部屋の世話役をしています。こちらの方もあわせてご覧いただければと思います。なお、森本六爾先生に関する情報などがございましたら、メールをいただけたら幸いです。このページへのリンクは大歓迎です。

 最後に本ホームページにおきましては、本来ならば森本六爾先生と呼ばせていただかなければいけませんが、敬称を略させていただいた部分がありますがお許しをいただきたいと思います。


前置きが長くなりましたがよろしくお願いいたします。

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