それぞれの岩宿

 岩宿遺跡の試掘に立ち会った4人の考古学者たちはそれぞれ、その当時の様子を回想しておられますのでこちらにご紹介いたします。


岡本 勇先生 

(その当時明治大学4年生・その後立教大学教授)

「明けて待望の日は訪れた。日本の考古学史に革命的なエポックは画されるか。曇天の桐生の空を仰ぎながら私達は一路現場に向った。(中略)いつ雨が止んだかはしらなかった。時計は四時三〇分を示していた。「五時までやろう、あと三〇分だ」杉原先生はいった。ラストヘビー、緊張の度はさらにひきしまり、ふるうシャベルの音は高かった。突然、先生のシャベルは石にあたったのかコチンと音をたてた。移植ゴテで周囲を掘りつつある先生は、その露出した青い石の一部をたたいて、「旧石器の音を聞けよ」と冗談ながらに笑いつつ、煙草に火をつけて、深くパイプをすいこんだ。取りあげた瞬間「あっ」といって泥をぬぐった青い石は、何あろうはっきりした形を示し、見事な加工の痕を有する石器ではなかったか。時まさに四時五〇分、誰の目も驚きの目より喜びの目に変わっていた。今ここにわれわれが立っている所が、旧石器の遺跡であることを、もはや何人も否定しはしないであろう。たとえそれが人工であるといわれるブルブスの石片をいくつ集めたところで、まだ私には可能性しか信じられなかったのに、この一つの石器の出土は夢かと思われるほどに確実性を教えてくれた。もう何も語ることはない。すべては喜びであった。心の中は万歳の声を歌っていた。「ハックツセイコウ タダナミダノミ」とその翌日研究室へうった杉原先生の電文は、ひとり先生の心のみをあらわすものではなかった。赤城の山の、また名も知れぬ関東連山の紫色にかすむ雄姿が夕闇を迎えはじめた頃、私共は意気高らかに遺跡を離れた。日本の考古学史における輝けるエポックメーカー達は、ただその感激について語りながら、岩宿の駅へ急いだ。汽車をまつ間、駅頭を行き戻りつする先生は、その時涙を流したという。
(岡本勇「研究史 一九四九年九月一一日のこと」『考古学手帖』2、1958年より)


相沢忠洋さん 

(その当時東毛考古学研究所主宰・その後赤城人類文化研究所所長)
写真は岩宿遺跡発見の槍先形尖頭器をみつめる相沢さん

 午後もだいぶ時間がすぎ、掘りかえした土の山が崖のふちにたまってきたころには、石剥片の数もふえ、いっそう活気づいてきた。四時少しすぎて小雨がばらついてきたので、一同が最後の迫い込みと意気込んでいるときであった。
 突然、杉原先生が、
「出たぞ、出たぞっ」
 と大声で叫んだ。先生は小型スコップを捨て、削られた崖面に素手をひろげている。みんないっせいに先生のところへ走り寄った。先生が指さす褐色層の断面に、みずみずしい青色の石のはだが覗いている。それも比較的大きいようである。みんなは息をのんだ。先生は指で少しずつまわりの粘土状の土をていねいに払いのける。だんだんその青色の石は大きくあらわれ、卵型の形を見せてきた。やがてコロッと先生の手で掘り出ざれた。先生が指で泥を払いのけると、なんと、完全なりっぱな石器であった。
 みんな、かたずをのむ。先生は無言でしばらくなでまわしていた。その手はふるえているようだった。
 後日、何かの本に、このとき杉原先生は涙を流したと書かれているのを読んだ。が、先生が涙を流したかどうか、私にはわからなかった。このときの私は、興奮はしていたが、それほど感極まるというほどではなかった。せっかく東京からこられた先生方が、むだでなかったことが何よリうれしかった。私が感激をもったのは、すでに過日、ここからあのきれいな槍先形の石器を見つけたときに尽きていたのだった。もし、杉原先生が涙を流されたのだったら、それは一人の考古学者としての純粋な学究人の涙であっただろう。
 私のそれは、祖先の一家団らんの場で使われたにちがいない石器を手にして、その肌に隠された夫婦、親子などの人間関係への郷愁と恩慕によるものだった。
 やがて杉原先生の手から、みんながかわるがわる手にし、そのずっしりと重い石器のはだざわりをたしかめるのだった。あたりはもう夕やみが追ってきた。私たちはこれをしおに意気揚々と宿に帰ったのであった。宿に帰ってからも、またみんなで採集した石器や石剥片について、いつまでもながめ入っては語りつづけだ。
「私はまちがっていなかった、私はついにさがしあてた。この赤土のなかに、私たちの祖先の残していった体臭を!」
 私は、この新しい学問の出発点をみつけ出すことに貢献できた喜ぴを、心のなかで一人かみしめるのだった。(相沢忠洋『岩宿の発見』より)


杉原荘介先生 

(その当時明治大学専門部助教授・その後明治大学教授)写真は岩宿を発掘する杉原先生『群馬県岩宿発見の石器文化』より

 本人(引用者注・相沢忠洋さんのことを指す)はあるでしょうね。本人は何か出るかもしれないというのがありましたが、ぽくたちはちょっと確信がなかったです。ぼくが覚えているのでは、お昼少し前から掘り始めたのですが、とにかく出ないのです。赤土を掘るということ自体あじけないですしね。ところが今から逆算して推定すると、午後二時か三時ごろ赤土のわりあい下のほうからりっぱな頁岩の割片が出たのです。それにちゃんとパルブがついているのです。相沢君がもってきたものとはまったく違うものですが、一五センチくらいもあるのです。これはちょっとピリッときました。しかし、バルブのついている剥片を掘ったからといって、別に何もならないので、むしろ剥片がある以上はトゥールがあるかもしれないというので元気づいたのです。最初に出てきたのは、ぽくたちが岩宿Tといっているものの剥片です。その出土状態の写真を芹沢君が撮ってくれています。当時から芹沢君は写真がうまくて、ほとんど全部写真を引き受けてくれたのですが、それは撮ってあります。それは最初のトゥールが出るより二、三時間前です。だから、もしわれわれが鋭敏なる考古学者なら、それが最初の発見であってもよかったと思います。剥片ではどうにもならないが、剥片が出た以上何か出るだろうと思いました。ところが天気がだんだん悪くなってきて、真っ暗くなって雨が降りはじめたのです。それであの時分われわれがやった狸掘りをやって、横にあけてなるぺく雨を避けようではないかということも、発掘を進ませた一つの原因なのです。それでみんなで少し分かれてあちこち掘ったのです。雨にぬれてしようがないから、ぼくは責任者だし、あまり無理をしてもいけないし、明日ということもあるので、今日は五時ごろまでやってやめようではないかということで分かれてやったのです。それで分かれてやっているうちに、ぼくのシャべルにカチンという音がしました。ロ−ム層だからカチンなどという音はしないのです。また石はないはずなのです。それで出してみたら石器の一号が出てきました。初めはぼーっとしました。みんな出たというので、ぽくのところへ集まってきたのですが、頬をつねってみても痛いしこれは本当だろうということです。五時まででやめるということにしたので、それが五時一○分前、すなわち当日の四時五○分だったということは覚えているのです。しかし、それが旧石器だということをただちにそこで了解したということではまったくないのです。いろいろの問題が出てくるのはそれ以後のことなのです。翌日はぼくは本発掘の用意をしなければならないので、芹沢君にあとを全部頼んで関係官庁を回って歩きました。あとは芹沢君がほとんど発掘してくれたのですが、二日目も日記帳をみるとずいぶんいろいろなものが出たのですね。

 とにかく石器がないといわれているローム層の中から石器が出るということもわかりました。土器はあるないということにかまわずにやろうではないかといいましたが、土器はなく石鏃も出てぎませんでした。従来、関東ロームといわれていた赤土の中から出たということと、土器を含んでいないということだけはわかったのです。それが旧石器時代という概念よりも、縄文式土器より古い時代だという概念のほうが先に出てくるいきさつになるわけです。こういう話をすると、その赤土が今でいうならば北関東の上部ローム、あるいは中部ロームのトッブだという頭で解釈されるときわめて困るのです。そういうことはほとんどわかっていなかったのです。杉原荘介 ほか『シンポジウム旧石器時代の考古学』学生社1977年より

 私は岩宿層を目指して発掘を進めていた。ところが、私のシャベルにカチンという音がして、そこにかなり大形の石片が埋存していることが分った。岩宿層でも下の方であるが、出土地点を明瞭にしておいてから、丁寧に取出してみると、これがなんと両面に調整剥離が明瞭に行われている楕円状のハンドアックスではないか。私のところに集まってきた皆んなは一時沈黙をまもったが、すぐお互いに笑顔を交わす。私は一瞬異様な感激に身体のおそわれるのを意識した。時計を見ると5時10分前であった。

杉原荘介『群馬県岩宿発見の石器文化』明治大学考古学研究報告1 より


芹沢長介先生 

(その当時明治大学大学院生・その後東北大学教授)

九月一一日。桐生発八時五五分の汽車に乗り岩宿駅で下車。すぐに岩宿遺跡にむかう。小雨がときおり降ってきて肌寒い。やがて石灰岩の岩肌がそそり立つ孤立丘の東南端が眼前にあらわれた。奇怪な風景である。この丘のどこかに旧石器がかくされていると思うと、何か期待に胸がいたくなるようであった。

 丘の裾をまわって西北方に約五○○メートル進むと、ひょうたん形の小丘のくぴれた部分に切通しの道路が走っていた。その道路の両側には黄褐色のローム層が露出しているいる。石器が出土したという問題の赤土層である。黒曜石の石槍は切通しの南側の崖から出土したというのだが、北側の断面の方が状態がよさそうなので、北側をスコップで掘りはじめることにした。

午前中は目ぼしい遺物が出なかったが、それでもバルブのある石片や黒曜石の砕片などが見つかった。やはり相沢の言葉どおりに、ローム層の中から石片が出ることは間違いなさそうだ。あわただしく弁当をたいらげ、また午後も断面を掘り進めると、明らかに加工された石片二個、バルブのある石片、黒曜石の小片などが続々と発見された。作業を中止する一○分前になって、長さ一○センチメートルくらいのみごとな楕円形の石器が出土した。相沢の観察は正しかった。この岩宿遺跡のローム層の中には、間違いなく旧石器時代の遺物が埋もれていることを、われわれ三人もまた確認したのだった。

 一八時一○分、岩宿発の汽車で桐生まで帰る。風呂に入り、ピールで祝盃をあげる。相沢来て、遅くまで身の上話などを聞かせてくれた。サマー・タイムが昨日で終り、くつろいだ気分になった。二三時頃寝床に入る。

九月一二日。朝から雨。朝食のあと相沢来て、杉原と二人で笠懸村の村長や地主のところへ発掘調査の交渉に出かけた。昼頃から芹沢と岡本は岩宿遣跡へゆく。午後からは雨も止み、空も明るくなったのだが、発掘を進めても遺物はほとんど出てこない。一六時三○分頃、杉原と相沢が現場へ戻ってきた。昨日と同じ汽車で桐生へ戻る。夕食後、相沢の持参した資料をおそくまで見せてもらった。写真のカビネ乾板を寝床の中で入れ替えてから眠る。

九月一三日。今日も朝から曇天。宿の人たちに別れを告げて桐生をあとにする。岩宿駅を降りてから丘の周囲を歩きまわり、遺跡の全景を四、五枚撮影する。杉原と相沢は村長に案内されて、宿舎となる予定の国瑞寺へ交渉にいった。昼近くなってから現場をまた掘りはじめたが今日出士したのは石片ぱかりだった。それでも三日間の試掘で、石器と石片を含めて約七○点の資料が発見されたことになる。雨の降る中で出土状況の写真四、五枚撮る。今日でだいたい試掘の目的は達したので、大間々駅に出て、一七時三○分発の東武電車で帰京した。青山の家に着いた時は二一時を過ぎていた。

九月一○日から一三日までの四日間にわたる岩宿遺跡の試掘によつて、私が七月二七日に相沢忠洋から聞かされたこと−−岩宿の赤士の中から石器が出士したという衝撃的な話は、まさに事実であることが判明した。ながい間、考古学者から無視されてきた赤士‐‐関東ローム層は、重要な旧石器時代の文化層をふくむ地層として注目されることになるだろう。また、従来は全く不明であった日本の旧石器時代文化も、ローム層の発掘を続けることによって遠からず明らかにされるにちがいない。無名で、しかも貧しい納豆売りの若者相沢忠洋が、日本旧石器時代の重い扉を、その節くれだった両手で押し開けてくれたのだ。日本における旧石器研究への本格的な第一歩を、私は相沢忠洋とともに踏み出した喜ぴにつつまれて、その夜はほとんど眠ることができなかった。芹沢長介『日本旧石器時代』岩波新書 1982年


先頭に戻る

相沢忠洋記念館へ行く

岩宿ドーム入口