まぼろし文庫


はじめに 

 このたび、私は「まぼろし文庫」という連載を始めようと思います。内容は主に私の所蔵する貴重な?考古学書の自慢のコーナーでございますので、あっさりと読み飛ばしていただければ、と思います。こちらに掲載したものはニフティの「考古学の部屋」の転載記事でございます。そちらもあわせてご参照をお願いいたします。


目次

まぼろし探偵団のお知らせ

第1回 榊原政職『人類自然史』(内外出版、大正12年)

第2回 杉原荘介『貝塚と古墳』(福村書店、昭和26年)

第6回 椿井大塚山古墳の報告書について

第7回 浜田青陵 『青陵随筆』(座右宝刊行会 昭和22年)

第8回 直良信夫 『日本新石器時代貝塚産貝類の研究』(直良石器文化研究所 昭和7年)

 


まぼろし探偵団のお知らせ

 いよいよ、まぼろし文庫快調です。

ですが、、、私の本も早くもネタ切れ気味なので、まぼろし探偵団を募集いたしいます。

探偵団入会資格

 考古学をこよなく愛し、いにしえの人々の埋もれた学史を掘り起こすべく古書探求に夢中になれる方。(やじうま大歓迎)

まぼろし文庫の対象になる本

T 考古学の学史および、研究の流れにおいて、画期となった貴重な文献。
U 現在は絶版になっていて、入手不可能であること。
V 値段が、あまりにも目が飛び出るようなものでないこと。
W (本当はそのような値段ではおかしいのに不当に安く売られている本も含む)
X 出版部数が少なく、希少性のあるもの。

 以上の中の一点でも該当すれば、対象とします。

 特に、簡単に説明すれば、坂詰秀一先生著『日本考古学文献解題』T、Uに載っていない本は文句なしで対象といたします。現在は、昭和40年代ぐらいに出版された本でも、対象とする場合があります。

 ご入会ご希望の方は私までメールを戴けるか、レスをつけていただきますようお願いいたします。_(_^_)_


第1回 榊原政職『人類自然史』(内外出版、大正12年)

 この本との出逢い。

 榊原政職という考古学者の名前を知っていますか?

 実は私も、つい最近まで、知りませんでした。ところが、角田文衛先生の『考古学京都学派』の最後に榊原政職とわずか23歳で亡くなった考古学者のことが出てきます。そして、この間の「東京考古学会のサムライたち」でも、坪井先生のお話の中に榊原政職という考古学者が、諸磯式土器の研究ですばらしい業績を挙げた、というお話をなさいました。そして、彼の遺著が『人類自然史』という本であるということを知りました。
 つい先日、毎月恒例の神田の古本屋めぐりをしていたときに、小川町の五萬堂書店という古ぼけた古本屋で、本棚の隅にこの本はありました。思わず、なんでこの本がここにあるのか、と叫んでしまいました。もちろん、すぐその場で購入したのですが、もちろん初版でわずか800円という値段にもまたビックリいたしました。以前、本郷の第一書房で900円で浜田清陵先生の『通論考古学』の初版を900円で購入して以来の驚きです。この浜田先生の本はその日別の本屋で第3版で8000円で出ていたのですから、ビックリしますね。最近は、もっぱら1000円以下の幻の本を中心に探検を続けています。

この本の読みどころ

 この本は、榊原氏が存命中にすべての準備をされておられましたが、いよいよ病が重くなられ、ご自分ではまったく身動きが出来なくなられた時に、浜田清陵先生が何とか、生きているうちに出版してやりたいと全力を尽くされたということです。しかし、間に合わずに遺著となってしまいました。その後、再販もされずに、このすばらしい本は絶版となっていくという運命をたどります。
 本書の内容は主として人類の進化の様子の紹介であり、主としてその材料を海外の文献に求めておりますが、独自の見解を述べられている部分もあり、それは同じ病で倒れた森本六爾の晩年のものと同じように鋭く余人の追従を許さぬものでした。

「我々の短い生と、此の何万何千万年の年月との間に起こるべき問題とは、比較し得られない殆ど無限の大きさと深さの違いである。事実我々の一生から一万二万という数を見れば実に広大なものであろう。(中略)地球の過去宇宙の現象を、ある程度まで知り得た我々は幸福であるとともに、人類ー否我々の生をこの世界の中に求めようとする時、果てしない淋しさを覚えてくる。ここに真の宗教があり、詩があるのい゛はないだろろうか。我々はいつもこの世界を考えて、うっとりとほろ酔いの夢のごとき空想をめぐらし、独り淋しい微笑をもらすことを禁じ得ない。」(現代語訳ーロクジ)

わずか、23歳という短い生涯の最後に遺したことばとしてかみしめてみたいのである。


05110/05110 RXE12761 ロクジ (15) 98/04/14 23:02

第2回 杉原荘介『貝塚と古墳』(福村書店、昭和26年)

杉原荘介『貝塚と古墳』福村書店 1951年(昭和26年)初版

この本との出逢い

 この本は神田の五萬堂書店で購入いたしました。入手したものは昭和37年に再刊されたもので入手価格500円です。中学生歴史文庫、日本史1として出版されました。中学生向きに書かれているだけあって非常にわかりやすい内容です。戦後になって数々の入門的な考古学書が出版されましたが、本書はそれらの中でも早い時期に出されたものとして注目すべきものである。なお、本書の出版に際しては芹沢長介、大塚初重、岡本勇の三氏の協力があり、序文に謝辞が述べられている。

読みどころ

「貝塚を掘って土器や石器を調べることもたいせつです。古墳を見つけて埴輪を探すこともだいじです。しかし、土器や石器や埴輪を研究するだけでは、もっとも重要なことを忘れることになるのです。その土器や石器や埴輪を残した人々の社会はどのようなものであり、その移り変わりによってどのような歴史がつくられたかを考えねばなりません。(中略)いままで、皆さんのために土器や石器や埴輪にだけついて書いた本はたくさんあると思いますが、このようなことについて書かれた本が少ないようです。それで、わたくしはこの本では、とくにそのようなことに力を入れて書いてみました。」

これは、新時代へむけての杉原先生のメッセージであったとともに、戦前に出版した名著『原史学序論』の難解さに対する答えであったとおもわれます。
 また、特筆すべきこととして、わずか2年前に発見された岩宿遺跡について遺跡の全景の写真とともに杉原先生自身の手によって掘り出されたハンドアックス2点の図が載っています。同時期に出版されたすべての概説書で縄文時代以前の記述については省かれているが、明石原人骨の紹介とともに発掘調査されて間もない岩宿遺跡について紹介し、我が国にも大陸における旧石器時代の同じような文化があったことが述べられているのです。

「これらの遺物といっしょに、磨いた石器や、石の鏃や、土器などは全く発見されていません。ですから、この人たちの生活は、石器時代の人々のうちでも、まだまだ、原始的なものといわねばならないでしょう。おそらく大陸における旧石器時代人の生活と、ほとんど同じだと思います。しかしこれが、いまわかっている日本の島国においての、最初の人間の生活の姿なのです。日本のこの時代のことは、これからなお、だんだんとはっきりしてくるでしょう。」

 

著者紹介

杉原荘介

 大正2年東京日本橋小舟町に生まれる。幼少より考古学に親しみ、市川市姥山貝塚をはじめとして多くの貝塚を発掘調査する。中学卒業後いったん家業の紙問屋を継ぐ。東京考古学会に入会し森本六爾を助け、藤森栄一、小林行雄らとともに東京考古学会の三羽ガラスとして活躍する。森本六爾の死後、東京考古学会を藤森栄一ともに主宰するかたわら、28歳の時に明治大学専門部に入学し、後藤守一に師事する。昭和18年処女出版『原史学序論』(葦牙書房)により考古学が歴史学の補助学ではないことを宣言する。同年応召、中国大陸各地を転戦する。昭和21年復員。文部省に勤務し、戦後初の社会科教科書『くにのあゆみ』の編纂にかかわる。昭和23年明治大学専門部助教授となる。登呂遺跡の発掘調査に精力を傾け、日本考古学協会の発足に尽力する。昭和24年芹沢長介の紹介で相沢忠洋から岩宿遺跡の情報を聞き、すぐに緊急調査をする。岩宿文化と命名し縄文以前の文化が日本にもあったことを提唱するが、学界の猛反発にあう。しかし、茂呂、茶臼山、上ノ平ら、白滝服部台など多くの遺跡を発掘調査し、この文化を確実なものにした功績は大きい。
 常に学界の先頭に立ち、牽引車として日本の考古学をリードした。先土器時代の研究の他にも、弥生文化の研究にも力を注いだ。特に、師の森本六爾の水稲農耕文化論を実証するため、遠賀川立屋敷遺跡をはじめとして、須和田、唐古、登呂、板付などの弥生遺跡を発掘し、弥生式文化の基礎的な編年を確立した。晩年は国文化財保護委員として遺跡の保護にも力を尽くし、加曽利、堀之内、曽谷、姥山の貝塚、須和田、鬼高遺跡などを破壊から守った。また、長野県考古学会顧問として藤森栄一賞の初代選考委員長をつとめた。昭和58年心不全のため死去、68歳。多摩霊園に眠る。


05296/05296 RXE12761 ロクジ (15) 98/05/24 22:56

第6回 椿井大塚山古墳の報告書について

こんにちは、皆様。

朝日新聞に次のような記事が出ていました。

 

05/23 朝

: ◇椿井大塚山古墳の報告書45年ぶりに発刊◇

 一九五三年に三十面を超す三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土した京都府相楽郡山城町の椿井大塚山(つばいおおつかやま)古墳(三世紀末ごろ)の発掘調査報告書が二十二日、発掘から四十五年ぶりに発刊された。当時、鏡の大量出土をもとに古代国家論が展開され、邪馬台国畿内説の有力材料にもなった古代史学上第一級の発掘だが、これまで正式の報告書がなかった。全容が詳しいデータで提示されたことで、三十三面の三角縁神獣鏡が見つかった奈良県天理市の黒塚古墳などとの比較研究が前進するとされる。
 報告書は、京大非常勤講師(当時)として発掘に携わった京大名誉教授の樋口隆康・奈良県立橿原考古学研究所長(七八)が監修・執筆、山城町が文化財保護事業の一環として刊行した。
 銅鏡全体の枚数については「確実なものは三十五面を数える。もとはそれ以上あった」と記述。このうち三角縁神獣鏡の数については明記しなかったが、樋口さんは会見で「三十一面は確かだが、破片の数え方によっては三十二ないし三十三面になる」と説明した。
 また、報告書では、石室内の鏡など遺物の出土状況も図面で提示。出土遺物すべての計測値や実測図、修復前の破損したままの鏡の写真、石室床面の構造見取り図など未発表の資料も含まれている。
 三角縁神獣鏡の出土数としては当時最多で、これをもとにして京大講師だった小林行雄氏(故人)が五五年以降、鏡は服属のあかしとして各地の豪族に配られ、大和政権の勢力範囲を表すとする「同笵鏡(どうはんきょう)理論」によって、画期的な初期大和政権論を提示した。
 公式の報告書になるはずだった京都府教委の調査報告書(六四年)は、京大考古学研究室の教授だった梅原末治氏(故人)によって作成されたが、調査結果が無断で使用されたと、梅原氏を暗に批判する文章が雑誌に発表されるなどした結果、府教委が配布を中止していた。

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まぼろしの報告書が発刊されるということは非常にうれしいです。

これまで、椿井大塚山には報告書がなく京大の『史林』にのった樋口隆康先生の略報が参考文献にあげられるという慣習が続いていました。(ここら辺の内部事情については、角田文衛先生の『考古学京都学派』に出ていますが、それによれば、報告書はわずか30部程度のみが刊行されただけで、残部はどこかに死蔵されていたようです。)


00104/00104 RXE12761 ロクジ (14) 98/05/30 01:25

第7回 浜田青陵 『青陵随筆』(座右宝刊行会 昭和22年)


浜田青陵 『青陵随筆』  座右宝刊行会 昭和22年

本の内容

 浜田耕作著作集の最終巻に本来なる予定であったものが、戦争のため遅れて、戦後になってようやく刊行されたのが本書である。浜田先生の流れるような名文からなる随筆集で、とくにシュリーマン夫人との会見記は学史上にも重要である。

この本の読みどころ

「すぎにしかたこひしきもの、そのいくつかを数え挙げて、「折からあはれなりし人のふみ、雨などの降りてつれづれなる日さがし出でたる、」とあるのがこれまで何度となく思出されたことであった。(中略)考古学研究室に人をたづね物をとひにゆくとき、何やかやの配置おきどころの相違、人の位置座席のぐあひの大いなちがひ、そのくせ額などは、それが写真にせよ、文字にせよ、ありし日の面影そのままを残してうらさびしさ堪へかねるばかりである。時勢といひ、世相といひ、お茶菓子など固より戴けるわけもない世の中であるから、老人の愚痴もさすがに出ないが、然しすぎにし方のこひしさは、この青陵倶楽部ともいひたい室の遺址に立つたときほど甚しきはない。」

新村 出博士の序文より

 

町田 高原書店にて入手 1500円也


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