森本六爾略年譜


西暦

年号

年齢

できごと

1903

明治36年

3月2日、奈良県磯城郡織田村大泉(現桜井市)222番地にて、森本猶蔵、すえの長男として生れた。

1909

明治42年

6歳

4月、磯城郡大西小学校に入学。

1915

大正4年

12歳

4月8日、奈良県立畝傍中学校に入学。

1919

大正8年

16歳

畝傍中5年,中ごろから考古学に熱中する。

1920

大正9年

17歳

3月、畝傍中学校卒業。国学院大学を受験、合格したが入学しなかった。奈良県磯城郡三輪尋常高等小学校代用教員となる。月俸二十円。

1921

大正10年

18歳

3月21日、依願退職。
10月10日、日本考古学会入会。

1922

大正11年

19歳

3月31日、奈良県磯城郡香久山尋常高等小学校代用教員となる。
9月、唐古池で層位的発掘を行う。
この前後京都帝国大学梅原末治のもとに通う。

1923

大正12年

20歳

3月31日、依願退職。
9月30日、奈良県生駒郡都跡尋常高等小学校代用教員となる。
8月、唐古遺跡を再び発掘、籾圧痕のある土器片を採取
12月10日、処女論文「大和における家形埴輪出士の一遺跡について」を『考古学雑誌』13巻9・10号に発表。

1924

大正13年

21歳

3月31日、依願退職。
4月、上京し、谷中坂町の臥竜館に止宿。東京高等師範校長三宅米吉教授の副手となる。歴史教室勤務。
12月、三宅米吉の使いで坪井良平を訪ね,以後親交を深める。

1926

大正15年

23歳

11月 「前方後円墳の外形の起源について」(『考古学雑誌』16−11)
12月15日、処女作『金鎧山古墳の研究』を雄山閣から出版。

1927

昭和2年

24歳

7月、有志と共に考古学研究会を創立し、雑誌『考古学研究』を創刊。
7月15日、論文集『日本上代文化の考究』(中村久四郎博士と共著)を四海書房から出版。

1928

昭和3年

25歳

2月5日、考古学研究会の見学会で、千葉県上総国分寺に行き、浅川ミツギに初めて逢う。
3月25日、烏居龍蔵博士夫妻の媒妁で浅川ミツギと結婚。

1929

昭和4年

26歳

2月10日、『川柳村将軍塚の研究』を岡書院から出版。
6月15日、『日本青銅器時代地名表』を岡書院から出版。
11月、考古学研究会を改組し、東京考古学会と改称。
11月11日、三宅米吉校長の急逝により、東京高等師範学校副手を辞任。

1930

昭和5年

27歳

1月、東京考古学会から雑誌『考古学』を創刊。

1931

昭和6年

28歳

4月1日、東京を出発、考古学研究のためフランスに留学。陸路シベリア鉄道を直行した。

1932

昭和7年

29歳

3月9日、海路スエズを経て神戸に帰朝。

1933

昭和8年

30歳

10月、雑誌『考古学』の増刊として『日本原始農業』を刊行。

1934

昭和9年

31歳

12月、雑誌『考古学』と共に不定期刊行雑誌『考古学評論』の刊行を計画し、その第一号として『日本原始農業新論』を刊行。

1935

昭和10年

32歳

11月11日、夫人ミツギ、奈良県三輪町の仮寓にて死去。

1936

昭和11年

32歳

1月22日。鎌倉市極楽寺八七番地の仮寓にて死去、奈良県桜井市粟殿極楽寺に葬られる。

1941

昭和16年

遺稿集『日本農耕文化の起原』(藤森栄一編輯)が葦牙書房から出版された。

1943

昭和18年

論文集『日本考古学研究』(小林行雄編輯)が桑名文星堂から出版された。


参考文献

藤森栄一『二粒の籾』をもとにまとめました。


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