森本六爾先生のお墓参りオフの記録

こんにちは、皆様。歓迎ありがとうございます。(^o^)

かおるさん、どくたくさん迎撃ありがとうございました。

なにしろ、急に決めたことなので(1ヶ月に3回の長距離取材はつらい(^_^;)皆様にご迷惑をおかけいたしました。今日は本当に有意義な一日でした。今日のオフの様子を簡単にご紹介いたしましょう。

始まりは横浜駅より。

 やっとまた取材に行ける、会社が終わる頃から気持ちはわくわくです。電車は横浜発1時11分のムーンライト長良で名古屋駅を目指す。相も変わらず、今日もリブレットがお供である。さっそく駅のフォームでメールチェック、どんたくさんからのお礼メール受領。やっと、モバイルメールの受信に成功。

眠れない車内。

 いつもの会社帰りだと席に着くとすぐに眠くなる私ですが、今日は興奮してよく眠れず。名古屋まで、ちょっと眠っただけでした。あと、今回は『森本六爾伝』を持参しているので、不安はないでしょう。

名古屋にて近鉄特急に乗り換え

 6時10分ごろ名古屋駅着、くるたびにきれいになっている名古屋駅に驚く。6時30分発車の特急で名張まで名張で快速に乗り換えて、8時30分ごろ桜井駅到着。かおるさんとあう。かおるさんの歴史フォーラムステッカーを初めてみました。さっそく、六爾先生のお墓のある粟殿の極楽寺横の共同墓地へと向かう。とりあえず、今回の迎撃者は一名かな。なにしろ急だったから。OBITOさんにはお会いできずに、残念でした。

歩きながら、本日の計画をお話しする。

 かおるさんはメールに書いてあった通りの方で、一安心。初めてお会いしたのに、初めての感じがしない、やっぱりいつもフォーラムで一緒だからかな。地図も持たずに歩いたのに、10分程で写真で見たことのある、墓地に到着。

お墓が、ない。

 なんと、いっぱいお墓があって、どこに六爾先生のお墓があるのか、全くわからない。すると、かおるさんが以前桜井でおこなった特別展の図録を取り出して、写真の角度、三輪山の見える位置などから、検討を加える。私は、相変わらず、感性探索方式で、全くのヤマカンを信じて一基ずつ見て回る。どうも、こちらの墓地ではないらしい。極楽寺の方へ向かう。ところが、極楽寺墓地にもない。困った。全部見たけれども、どこにもない、誰かに聞こうにも、誰もいない。日当たりのよい墓地に、すばらしい三輪山の眺め。ああ、かおる探偵と、ともに首をかしげる。やっぱり、私の感性はダメみたいだ。

原点に帰って、共同墓地を再探索。

 やはり、すると共同墓地の方か、と再び原点に帰って共同墓地を再探検する。やっぱり見つからない。あきらめと絶望が二人の探偵を襲う。ふと、しゃがみ込む私、すると角度が変わったせいか、どっかで見たことのある石塔があるではないか。

ついに、発見六爾、六爾にあう。

 思えば、ここにたどり着くまでに、本当に長い道のりがあった。最初に斉藤忠先生の御本で森本先生の存在を知って以来、17年もかかってしまいました。写真では何度もお目にかかっていながら、なかなか機会を天は私に与えてくれなかった。ここに、、ついに六爾が六爾に会う日が来たのである。それにしても、なんと質素なお墓であろうか、多くの他のお墓に見守られるようにひっそりと、六爾先生とミツギ夫人の合葬墓はそこにあった。ふと見ると、きれいなお花が供えられているではないか。すかさず、いつもの通りに、線香に火をつけた。

疑問、その1「瓜二つな二人のお墓」

 そういえば、このお墓誰かのお墓によく似ているなあ。・・・・・・そうだ。多磨霊園にあった杉原荘介先生のお墓とそっくりだ。でも、どうしてだろう。花崗岩を用いている点も同じである。少し杉原先生のお墓の方が上等のような気がしたが。確か、森本先生のお墓は藤澤一夫先生のデザインで浜田耕作先生の題字だったと思いますが、杉原先生のそれについては、どうなのでしょうか。

どんたくさんあたりがご存知ないでしょうか。それとも、藤澤先生に突撃取材をお願いしましょうか。

大阪の弥生博物館に向かう。

 さて、長かった旅の終着点、弥生博物館に到着いたしました。弥生博物館までのJR線の電車のボロイことにびっくりしました。東京の方では、ローカル線のわが横浜線でも走っていないような、103形の水色の電車が走っているではありませんか。でも、私はこのオールドタイプの車両が大好きなのでとてもうれしかったです。

 

弥生博物館の展示その1「太閤さんの時代の大阪城」

 太閤さんの時代の大阪城を全く埋め立てていまの大阪城は造られています。ですから、発掘すれば下から出てくるとの予想はしていましたが、こうもはっきり出てきてしまうと、とてもうれしいです。大阪夏の陣屏風が展示してありました。私の大好きな真田隊を探す。ありました、中央の勇ましい真っ赤な軍団が、、、、ちなみにここで六爾の真田講座開催。「なぜ、真田家の紋所が六連銭なのでしょうか」

「それはですね。六連銭とは三途の川の渡し賃の六道銭のことなのです。ですから、以前からこの紋所ではありません。大阪の陣にあたって幸村公がデザインしたものなのです。」

「そうなのですか。」

「決死の覚悟を示したものなのです。最初から生きて帰るつもりはなかったのです。あくまで、武士の意地のための戦いだったのです。だから、真田隊は強かったのです。」

「なるほど、よくわかりました。」

「奥のところに、金扇の旗指物が見えるでしょう」

「ああ、誉田山古墳のところですね。」

「ええ、そのすぐ下です。そこが、徳川家康の本陣です。」

「古墳にも、旗指物が見えますね。ということは、改変されているかもしれませんね。」

 

かわいらしい、犬のミニチュアを発見。

 今回の発掘調査で出土した遺物を順番に見る。すると、動物の骨などに混じってイヌのミニチュアを発見する。よくよく見ると、本当によくできていてかわいらしい。

「らん2さんが見たら喜びそうですね。」

「キャー、かわいいなんて叫び出すかもしれませんね。」

 

銅鐸の展示を見る

 「そういえば、ここには銅鐸の展示がありましたね。」

「そうです、弥生時代の卑弥呼の館のジオラマとともにここの名物なのです。」

「どうせ、作るなら唐古の楼閣も中につくったらいいのに」

「そうですね。でも、それはちょっとやりすぎかもね。」

 

銅鐸は、日本最大の野洲の銅鐸が復原されていました。でも、本当はもっと薄かったのです。現代の技術も及ばないものがあったのですね。

 

さて、いよいよ本題の坪井清足先生の講演会「東京考古学会のサムライたち」

の報告に移りましょう。

 

続く


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