仙台遺跡見学会参加記

第3回高森遺跡


なぜ仙台周辺で古い時代の遺跡が見つかるのか

 富沢遺跡の次は高森遺跡です。この高森遺跡に向かう途中、いろいろと早田先生から仙台平野の地質について説明がございました。かいつまんでいうと、なぜ東北それも仙台周辺におおく古い時代の遺跡が見つかるかというと、仙台平野には所々段丘状となって古い地層が露出している部分か多く、そこを中心に精査していくと遺跡の発見につながっているということです。古い地層が露出しているということは、以前から研究が盛んであった、北関東や南関東がほとんどが7〜8メートルも掘らないと10万から30万年ぐらいも前の地層に到達しないという状況にくらべると非常に有利です。しかし、これは杉原荘介先生らの前期旧石器否定論者からは層位の状態が悪いので、確かな前期旧石器の遺跡としてはふさわしくないという批判を招いたのです。しかし、杉原先生の死後、多摩ニュータウンで確実な層位から前期旧石器が発掘され、前期旧石器存否論争が決着したという学史的背景があります。


旧石器の研究で大切なこと

 層位の面で非常に仙台周辺が優位に立っているという点以外にも、すばらしいことがあります。相沢忠洋さんが以前よくおっしゃっておられたことなのですが、「石器である可能性を信じて、石器を見る」ことが、旧石器の遺跡の発見では一番重要であるということです。石器の可能性を信じなければ、タダの石ころでしかありません。相沢さんが岩宿を発見するまで長い間日本で旧石器時代の遺跡が発見されなかったのは、「可能性を信じて石器を見る」人々が学者の中にいなかったことでした。そういう点で、旧石器時代の研究史は常に可能性を信じるアマチュアの人々の努力の歴史でした。この仙台周辺には、アマチュアの人々のすばらしい活動が続いており、これが遺跡発見と研究進展のおおきな力となっているのです。


東北旧石器談話会

 このすばらしきアマチュアたちが、東北旧石器談話会です。この旧石器談話会は代表を鎌田俊昭和尚がつとめ、石器探しの名人藤村新一、横山俊平さんらが重要なメンバーとして活躍しています。これまでに会員の発見した遺跡はゆうに100ヵ所を越えます。そして、その範囲は主に東北仙台周辺ですが、あの南関東最古の多摩ニュータウン遺跡もじつはこの旧石器談話会のメンバーが出かけていって発見しているのです。そして、芹沢長介先生を信じて、その芹沢理論を忠実に実証していく試みが、新たなる遺跡発見へとつながっているのです。これは、現代の考古学上の奇跡ともいうべきですが、これは決して偶然などではなく、鎌田さんや藤村さんのそれこそ崖をなめるように観察していく、その日々の活動が遺跡発見へとつながっているのです。この旧石器談話会が宮城県をフィールドに大活躍し始めたころ、わが国の旧石器研究のパイオニア相沢忠洋さんは病の床にふせっていました。そして、病が一時好転したころ、前期旧石器存否論争に終止符を打つことを高らかに宣言した座散乱木遺跡の第三次発掘調査の発表会が行われました。相沢さんは特別に招待されて、共同研究者の関屋晃さん、千恵子夫人とともに参加しています。そのときの、写真が現在の残っておりますが、非常にうれしそうな笑顔の写真です。現在残っている相沢さんの写真の中でもひときわ輝いている一葉です。長年にわたる旧石器研究の苦労が一気に報われたような気持ちの相沢さんだったと思います。

 このとき、藤村新一さんは相沢忠洋さんに初めて会いました。藤村さんが「旧石器をやっているんです。」というと、相沢さんはすごく喜んでくれたそうです。その笑顔は藤村さんの心の中に熱い灯をともしました。そして、その後大車輪の活躍をして、石器発見の名人となっていったのです。


高森遺跡へ

こんな回想に浸りながら私が、うとうとしているうちに、築館町の高森遺跡へとバスは近づいてきました。

写真 この人が鎌田和尚こと東北旧石器談話会代表、野球帽をとると、もちろん坊主頭です

写真 鎌田和尚さん、真剣な表情が伝わってきます。

写真 資料を示しながら説明する鎌田先生

写真 左から早田先生一人おいて春成先生


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