資料室

資料その1

坪井良平氏の森本六爾追悼文『考古学』第七巻 第一・二号 所収

          弔     辞 

 昭和十一年一月二十二日、森本六爾君湘南鎌倉の地に没す。行年三十四歳。君は奈良県磯城郡織田村

大泉の人、大正十三年東都に遊学し・故三宅米吉博士の門にありて考古学を専攻す。その資性の俊敏と

加ふるに熱心なる研鑽とは、断然衆を抽で、斯学の進歩に貢献したること鮮少ならず。昭和二年、有志

と共に考古学研究会を創立するや、殆んど独力を以て刻苦之が経営の任に当り、後西欧に遊んで益々そ

の深奥を究む。帰来、鋭意考古学の発展布及に志し、夫人みつぎ女史と共に万難を排して、東京考古学

会を維持し、各般の研究漸くその緒につき、成果見るべきものあらんとするに当り、可惜夫人みつぎ女

史先づ病を獲て倒れ、森本君も亦起つ能はぎるに至る。

 君はその主力を我国青銅時代の研究に注ぎ、没前にありでは弥生式土器の論考を以て一眼目とし、学

界斉しくその成果を刮目して待ちしに之を果さずして長逝す。その遣念察するに余りあり。嗚呼悲哉。

 惟ふに、森本君夫妻は、徒手空拳を以て考古学と闘ひ、互によく相援け、満身創痍、あらゆる苦難の

重囲中にあってしかも屈せず、毅然としてその本領を発揮し、簿幸の短生涯を終りたり。君が認められ

しところは、その労に比して少く、君が酬ひられしところは、その功に比して誠に云ふに足らざるも、

君が成就したる業績は我国考古学の一紀念碑として永くその光輝を発すべし。森本君夫妻の霊亦以で瞑

すべきなり。

  昭和十一年二月            坪   井   良   平

 

資料その2

森本六爾先生の臨終

『藤森栄一日記』より

昭和十一年(一九三六、 二十五歳)

 一月一日

 元且ニハスキーニ行カヌコト。今年モ山へ登ッテ、例年ノ

記念写真ヲ撮ッテ来た。午後カラデモ元且ノ不在八仕事ノ上

ニマズイ。

 一月三日

 先史人の足跡を追って高原や谷を歩き出してもう十年にも

なるが、中々に資料は集まらない。先年一まとめ、まとめて

しまったら、もう後は何も残って居らない。

 一月十四日

 小林君へ(注森本六爾先生の病状悪しき時)

 杉浦サンノトコロへ打ッタ電報見マシタカ。東京へ皆ナー

度会合シテ見タカッタノデス。杉原君二依ルト先生ノ病状ハ

呼吸器ヨリモ腸ノ哀弱甚ダシク、或ハ腸結核カトモ思ハレ、

ソノ点医師ハ言明ヲサケテ居ルソウデスが、免ニ角、再起不

可能ダソウデス。弥生式の土器と石器の問題ヲ杉原君が筆記

ヲトリマシタ。先生が元気ノウチニ、一度皆ンナ集ッテホシ

イト思イマス。貴兄ヲ中心二杉原君、吉田君、藤沢君、コチ

ラデハ僕や丸茂君、勿論雑誌ハ責兄ニ頼ル外ナイコトハ勿論

デスガ、何カ力ニモナリ得マショウシ、先生モ心デハ希ンデ

居ラレルノデハナイデショウカ。今後ノ僕タチノ方針ヲ話シ

合エタラ。

 先生ガ責兄ニトテモ逢イタガッテイマス。何トカソチラデ

機会ヲ作ッテ下サイ。目下雑誌ノ配本八完全ニ行ワレテ居り

マショウカ、杉原君ノトコロヘ行カナカッタリ、八幡氏ニモ

トドカナカッタリデー寸ト心配デス。評論ハドウデショウ。

東京ノ先輩ニモコレカラハ頭ヲ下ゲテ行クツモリデス。今ノ

僕等ノ考エハドウシテ雑誌ヲ支持シテ行クカニアルノデス。

例の「考古学の友のノート」ニ関シテハ雑誌ノ終尾ニ、「編

輯所日誌」ノ代リニ編ミ入レテハ如何、又、日本山岳会会報

ノ如ク新聞半截位二作ッテ雑誌ニ折り込ンデハドウカトモ考

エテイマス。東京ニ集ッテアレコレ協議シテ下サイ。コレカ

ラ当分、僕八報告ノミ書キ度イト思イマス。貴兄ノ弥生式聚

成図、アンナ仕事ヲー生二一度シテ見タイノデスガ、金モ体

モユルシソウニモアリマセン。正シイ批評ガホシイモノデス、

石器ヲ書イテツクヅク思イマシタ。

 一月号ギリギリ何日ガ〆切ニナリマスカ。神田サンノ栗林

僕ノ庄之畑ヲ出シタイデス。神田サンノハドウシテモ出シタ

イノデス。デモ文モ図モ大変デ、大手入が必要デス。三森サ

ンノ雑誌、出タソウデスネ。手ニ入リマセンカ。

 貴兄ハヨク居ヲ変エマスネ。僕ハ旅の宿デモナンデモー度

宿ッタトコロニハ無茶苦茶ニ心引カレテナリマセン。冷イ夜

フケニオ茶ニ紅茶ヲ撰バセテ呉レタ杉浦サンノ娘サン。ピア

ノの上ヲホップイングスル様ナ素晴シイ京都語ヲ聞カセテク

レタ寿量院ノオバサン、貴兄ハコンナコトハアリマセンカ。

 一月十九日

 飛電アリ。カマクラニツイタアイタシコバヤシヨシダキョ

ウカマクラヘクルイソギシュッキョウセラレタシ スギ

森本先生の終焉

 二回ヒタツソレマデガンバッテクレ

 鎌倉、森本方小林宛。だがこのときは小林君も吉田君も去

った後で、先生一人、襲い依る死と苦闘していた。僕は二十

四日まで待てずに二十一日夜行で出発。二十二日正午近く杉

原を伴って鎌倉へついた。

 先生は両親に看護されていた。

 二十日、僕の電報を見られて、信濃から来るまで生きて居

られるかどうかと苦笑された。とても心待ちに待たれたよう

であった。

 二十二日、未明には稍視力が衰えられたのか、薄明が感ぜ

られてなかった。もう夜が明けたか、戸を開けてくれ、もう

朝か、信州から藤森が来たか、杉原はどうした、来るまでど

うしても生きている、と云われた。その後意識不明となる。

正午前ブドウ糖に稍元気、丁度その時藤森、杉原つく。

 眼が澄んで美しい頬が全く落ちてヒゲが痛々しく眼立つ。

時々顔をしかめられるけれど甚だしい苦痛はないらしかった。

腹膜に、肝臓が圧されてか、しきりに緑茶色の胆汁を吐かれ

た。はじめはだるそうに、語られようと努力されたが、唯か

すかに唇をゆがめられるに過ぎなかった。次第に元気になら

れた。僕はもう何もいらない、君達が来て其れとても嬉しい、

慾しいものは皆んなで分けて持って行って呉れ。

杉原が、先生、最後に僕等の方向に就て注意して慾しいと

たずねた。先生は、と切れと切れに次の様に語った。

 苦しみを克服した僕は楽に往生する。皆んな各々特長に進

め。僕と同じ方向を固守することはない。この外言うことは

ない。

 眼鏡をかしてくれ、顔がよく見えない(眼鏡をかける、それ

でも未だ明瞭にならない)僕の云うことはわかるが、家のもの

 には誰もわからないのだ。(先生の言葉は何程僕等の外にはわか

らなかった・そのためお父さんお母さん、看護婦にはつらく当られ

た。)

藤沢君、吉田君、赤い唇をしているね、美しいね。藤沢君

や坪井君にはあえないだろう。

 もう余りしゃべりたくない。飯も食ってゆっくり遊んでく

れたまえ。

 とても疲れられて、横を向かれた。僕等は次の間で、海老

の入ったドンブリを食欲もなくつついた。二十分位して僕を

呼ばれた。前よりもっと元気がなかった。終りの近づかれた

のが思われた。

 君の元気なのがうれしい。何でも感じたことは実行してし

まうと、少しも伏線がない、それが君の短所で大きな長所だ、

僕の境地は君が一番知っている。感覚を学んでゆき給え。杉

原はかしこい。僕は思う。終いに窮地におちないのはあの男

だろう、あれにみんなまかせた、それで僕はうれしい。

(杉原君入リ来ル)僕の最後ノ最後ラシイ原稿ヲ君ニシテモ

ラッタ、ソレダケデ東京ノ生活ハ楽シカッタ。

僕ハ古代人ノ生活ダ、古代人ノ生活ガ書キタカッタノダ。

単的ニ言エバ現代人の生活ガ書キタカッタノダ

杉原ガ、先生ノ〃考古学〃(四海書房、歴史講座)ヲ新シイ

資料ヲ加エテ完成致シタイガ名八何トシマショウカト尋ネタ。

コノコロカラ又トテモツカレタラシカッタガ、朧気ニ古代生

活ト答エラレタ。

 森本ハ弱々シカッタが、意地張リハ強カッタ。ソレデ親シ

イ友ヲ失ッタ、皆ンナニスマナク思ウ。君達ハ皆ンナイイト

コロヲ持ヅ。小林君ハ別トシテ吉田君も中々意地強イトコロ

ガアル。ソウソウ朝ノ味噌汁ノ味ダネ。丸茂君、ヤッカイニ

ナッタ、スマナク思ウ。

 僕ハ最後死ヌ前二自分ノ尻ヲ自分ノ石鹸デ洗ッテ死ニタカ

ッタ、事証ニモ学問ニモ

石鹸ト云ウノガ不明ダヅタノデ聞キカエスト苦シソウニソオ

ープト答エラレタ。杉原君ガグングン質問スルノデコレ以上苦シマ

セルノハ残コクニ思ワレタ)

 僕ハ今朝ヨイ気持デブドウ糖ヲブドウ液ヲ…・、不明、コレ

カラ長イコト言語不明、云イニククナッタ、ナゼダロナ(コ

ノ後ハウワゴトノヨウデアッタ)

 〃土器ノ尻〃ノ論文ハ発表ハ君タチニマカセル。

土器二於ケルカハン性ト定着性トノ問題ヲ進メル程ニ、一

方ハ文化二於ケル放浪性ト定着性トノ間題ヲ意味ヅケルデハ

ナイカ

 コレダケニシテ置キマショウ。話シガ出来ナククナッタ

ウレシサデ終リマス   

東京考古学ハ未ダ力ガアル、シッカリタノミマス。

 皆サンアリガトウゴザイマシタ。

 ソレハ四時コロデアッタ。看護婦ハ明朝ハ持ツマイトイイ、

臨終直後ハ危険ダカラ帰郷スルヨウニト云ウノデアッタ。先

生ニイトマヲツゲタラ、サヨナラト云ッテ向ウヲムカレタ。

何故力涙グマレタ様ニ思ワレタ。

 お父サンハカタミト云ッテ、先生が羽沢以来愛用サレタ

泥焼キノコーヒーセットヲ下サッタ。皆ソナデ分ケルコトニ

シテ、僕ハカップ一ツトポットヲモラッタ。思出ニ繁シイコ

ノカップダ。葬イノトキニハ是非奈良マデ来テホシイ。新シ

イ論文が出来タラ送ッテ下サイ、ロクジノ霊前へ供エタラヨ

ロコブダロウ。ロクジハ何モノコサズ死ニマシタ。ダガ若イ

人々ノ心ノ中ニ分レ分レニ生キテイルト思イマス。残シタ書

物モ皆サンデ分ケテ下サイ。鑑モ何ニナルトモワカリマセン

シ、ロクジノ気持モソウデシタ。

 鎌倉ノ海ハ荒レ狂ッテ、打チ上ゲラレタクラゲガ冷イ海ノ

光ヲスッテイタ。

 杉原ト僕ガ東京へ帰ッタコロ、先生ハ冷イダガ華ナ困窮ノ

生涯ノ幕ヲトジタ。

二十二日夜、杉原ト世田谷へ丸茂ヲ尋ネ、杉原ハ夜更テ考古

学評論ヲ持ッテ自動車デ帰宅、僕ハ丸茂宅一泊。

 二十三日丸茂鎌倉ヘ、先生弔電、朝杉原宅ヘ。正午八幡氏

ヲ東大二尋ネ、色々御援助願フ。承知サレ四時東京タムラに

て茶ヲノミ別ル、八幡氏ソレヨリ鎌倉へ。

夜行にて帰郷、北原伊兵衛ニ逢う。

 一月二十八日午后二時、先生葬儀、奈良県磯城郡織田村大

泉にて

父森本猶蔵氏

 弔電

 センセイノシニサイシソノゴイシニワガシウセイヲササグ

ルコトヲチカフフジモリエイイチ

出して見よ。

カは潜むものなり。

 一月三十一日

 あまえることの出来る唯一人の人を失った僕、可憐そうな

僕。もうこれからは労作をもっと練り上げなくてはならない。

鋭いヘンボウが身のまわりに一杯だ。今までの様なやんちゃ

なものではだめだ。小林兄来信、返事出ス。

二月三日

森本猶蔵氏、おくやみ文、香料五円。杉原荘介兄、十円拝

借金、返し、乾賢三君、御両親香料一円、其の他小林君、丸

茂君発信す。スケート。小林兄来信。

藤沢一夫先生の森本六爾先生の思い出  大塚初重編『考古学者杉原荘介』による

藤沢 それから忘れられないことは、森本さんが亡くなったという知らせをもらいまして、誰からもらったのかな、藤森栄一君かな。

司会 杉原先生が、方々ヘ電報を打ってらしたようですね。

藤沢 それで、鎌倉の森本さんのおうちを一人で訪ねて行ったんです。幾ら声かけても誰も出てこない。しょうがないから一人で上がったら森本さん死んでいましてね。誰もいないんです。先生、煎餅みたいになって、頭だけがポコッとあって、布団の中に体が沈んで、まったく厚みがないんです。生前はえらい鼻息の方だったのに、紙みたいになって死んでおられる。これを見たらもう涙が・・・・・。そこへ杉原さんがやって来たんです。ダンスをやっている杉原さんと違うんです。今度は羽織り袴で扇子を持って来られまして、その扇子を森本さんの枕許に置いて、手をついて何だか別れの言葉か何かだと思うんですが、長々としゃべっておられる。私はもう涙が出てしょうがない。彼が何を言っているのかしらないんです。誰もいないし一人で泣いていたら、そこへ来て彼は涙を流さないで、 一生懸命長いことしゃべっているんです。お別れを言ってたみたいです。

司会 杉原先生の記録ですと、森本先生の最後の原稿を前日まで口述筆記してたのです。「弥生式士器と弥生式石器」という論文ですか。

藤沢 そのときは、私と彼と二人しかおりませんから、彼が羽織り袴で扇子を持って、こうやって手をついて、森本さんにお別れを言っていた光景を見ている者は私一人だけなんです。誰もそんな話、聞かれた方ないだろうと思うんです。

司会 はじめて聞いた話ですね。それでどんなことをおっしやっていたかは?

藤沢 もう私は涙が止めどなく出て。親じが死んだときは涙も出なかったのに、森本さんのところにいったら人の気配がないし、そこに死んでペチャンコになっておられて、もう悲しくてね。それで、その後どうしたのか、その後の記憶がまったくないんですね。だから杉原さんが何と言ったのか全くいまはわかりません。

注、藤沢は藤沢一夫先生、司会は戸沢充則先生

 

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