NO.1

「島、俺は死にいくんじゃない。新しい命を貰いにいくんだ。」というところまでの諦観の境地には、私はまだほど遠く、皆といろいろと語りたく相原の協力を得てこのページを開設しました。

私の不祥事については、”ヤマト”というイメージを損ない、誠に申し訳なく心からお詫びするものです。

ここ数年の出来事については、これからおいおいその事情を説明したいと思っていますが、ともあれ今現在は前のように制作に没頭したいと強く思うようになっています。私は結局ものづくりしか能のないバカ者。

今居るところには制服を着た人が時々顔を出す。なかなか美しい女性もいる。皆親切な人たち。この経験も機会を見て語りたい。これからは思い出や、つれづれ思いつくことなどを書きたいと思っています。意見があったらこのページに寄せてください。

 

NO.2

夢・ロマン・冒険心。人々の気持ちの中から、こう言った言葉が、消えていった昭和48年、第二次オイルショック・赤軍派事件、世の中まるで現在のように不況の中で当時の少年少女たちは夢を失いロマン, 殊に「冒険心」と言う言葉は死語に近い時代でした。

そんな時私は、「宇宙戦艦ヤマト」を発想・企画・実現しました。多くの人々の貴重な才能の結集により制作された「ヤマトTV シリーズ」は、私の制作作品の中でも誇りとする作品であります。

また、視聴率平均5.4%で(39話のはずで考えていたのが)早々に打ち切りが決まった中で最後まで手抜きをせずに、26話を完結させたスタッフの皆様方に心から感謝するものであります。

TVシリーズ終了後、何とか劇場上映をと思い舛田利夫監督、山本暎一氏(監督)・田代敦己氏(音響監督)のご協力を得て製作(編集制作)を黙々と行い劇場作品として昭和52年8月公開、大ヒットとなりました。

ここに至るまで、約三年私の知らぬ間にTVシリーズの再放送により全国に新たに再認識され当初東京四館の上映であったにもかかわらず、全国各地のファンクラブの皆様の協力を得て、成功いたしました。

封切り初日の朝、来るまで劇場に向かう途中、私の気持ちは観客が来てくれるかと言う不安でいっぱいでした。丁度、宮益坂を下っていく途中、坂の上から4列渋滞の長い列が、歩道を埋め少年少女が並んで居りさらにその列が渋谷の東急文化会館の入り口まで達しているのをみてもこれが私の映画を見に来た子供たちとは考えてもいませんでした。それが、地下の東急レックスの入り口に私の初の製作配給をした劇場用映画「宇宙戦艦ヤマト」を見に来た子達と判った時は、我には信じ難く感動の一言に尽きました。

その時始めて映画を見終わった子供たちから差し出された色紙、パンフレットにサインをした言葉が、

夢・ロマン・冒険心

宇宙戦艦ヤマト・プロデューサー

西崎義展

No.3

以来「さらば宇宙戦艦ヤマト」に始まり、昭和58年、ヤマト完結編に至るまで、劇場に足を運んでいただいた総観客動員数は一千万人を越えその後、他媒体、TV、VIDEOGRAMを通じて25年間、世代の入れ替わりを考えても、数千万人以上の方々がヤマトを御覧頂き、さらに(昭和50年以降)米国にてTVシリーズを苦労の末放映したところ、日本と同じ様にファンクラブも全米100を超え数千万人の人々が、ヤマトを受け入れて行きました。

全世界では優に1億を超えるヤマトを愛して下さった方々、又ともにヤマトを制作した方々に、製作者である私がこの度二度に亘って起した不祥事に付きましては、皆様に楽しんでいただき大切にして頂いた「ヤマト」というイメージを損なうことに連がり、誠に申し訳なく心から詫びるものであります。反省も含めお詫び申し上げます。

宇宙戦艦ヤマトのテーマは「愛」であります。唯、私にとってはテーマはテーマ、心の中から”夢・ロマン・冒険心”の三文字が消えぬ限り私は作品を造る!という目的に向かって努力するという目的観を失うことはありません。

気力ある限りプロデューサーとは生様である!

行動あって結果あり (今回は、駄目です)

そんな私が今出来ること、やって来たことの中で今一番大切なことは25年に亘るヤマトの制作資料(制作素材)の保存管理であります。完成作品、映像はネガ等管理されても制作素材は、殆どのプロデューサーは捨てる例が多いのが普通です。私は25年間、黙々とこれを保存してきました。これが有ることで作品の制作過程の中でこれに参加したスタッフの役割が明確に判り、メインスタッフタイトルに代表される以外の人々がどんなすばらしい仕事をしてこられたのかを証明できるのです。私は出来得る限りそれを残しています。

私がこれ等がどんなものであり、且つ、TVシリーズに始まるヤマトの現場も含めて最後の音をつける迄すべて立ち会い、キューだしをして来た私が、淡々とその事実を語ることが、映像作品がいかにして作られていくのか、又、スタッフの役割の証明であり、私の生き様の証明にもなっていくでありましょう。

 

NO.4

私のようなタイプの制作(舞台、音楽含)現場出身の製作者(Executive Producer)は例が少なく、多くのプロデューサーは原作を映像化している例が大半であります。私はこれを否定するものではなく、私の原作ありてという例は作品歴にございます。しかし、どうやって自分の持ち味を出していくのか!ということでその都度自分の体験で身につけたオリジナリティーを追求しました。

宇宙戦艦ヤマトは、その自分の20代〜30代までの集大成であります。

その自分の持つオリジナリティーは自分1人で表現できるものではなく、その底に自分の必要とする才能の持ち主を見つけ配置し最後の編集とDB(音付け)は自分の感性で行います。私はそういうプロデューサーでありますので自分の映像、作家性を明確に主張しています。これを製作総指揮というタイトルを持って表示しています。

作品の語ることは自分の生き様を語る事であり、機会があれば今の情況をビシュアルに書き伝えられればと思っており、その日を楽しみにしています。

私は、人間の性善説で一生生きたかった。散々騙されました。でも性善説でありたい。

(好きな言葉)「オプティミズム」「初恋」「性愛一致」「己を宇宙に想大に夢みかける」「発想と感性」を大切にしたい。

 

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