2015年1月25日(日)00時03分04秒
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タイトル:10年ぶりです。信者です
投稿内容:こんにちは。
本当にお久しぶりです。
いつも、見させて頂いております。
ありがとうございます。
去年の秋の大祭の後、お直会の片付けも終わり、お広前での、〆(しめ)のお茶菓子会が始まった時、疲れと眠気がマックスになりまして信者さんの雑談と、時々起る爆笑の声を、何か遠くで聞くようにウトウトと、うたた寝をしていました。
その時、うたた寝の気持ち良さと共に、何とも言えない居心地の良さと、いい気分を感じたんです。
「お広前だからかな?なんか気分えいわ〜」
と思ったんです。
そう思うと共に、神様と共に生きる。神様の中で生かされている。
その気分、気持ちというのはこの、うたた寝しながら、お広前で感じた信者さんの雑談と、時々起る爆笑の中で感じた、有難い居心地の良さと、この良い気分なのかなあと思いました。
また投稿させて頂きます。
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投稿を頂き有り難うございます。
信者ですさん、10年ぶりとのこと、お久しぶりです。
信者ですさんの過去の投稿も見直させて頂き、変わらず(は失礼かな?)状況が見えるように、ほのぼの感じさせて頂きました。
私にとってお広前でのうたた寝の記憶、土佐高岡教会は先代の父がお広前にて休憩していた一角をお茶などが飲める休憩場所にして参拝者が来られる間、お茶を飲んだり、うたた寝したり、御結界に恪勤とはならないですが、心は常に神様に向けているつもりでいます(笑い)。
お広前にいつもいると、私は神様、御霊神様に見られているような感じもします。
霊感的というのではなく、両親が側にいて見守られているような安心感を感じます。
振り返れば私は教会長にならせて頂き、この1月で6年目を迎えましたが、4年前、先代の父が亡くなった年の春の大祭が丁度、十日祭の日でありましたので、大祭の後に私一人で父の十日祭を仕え、講師には少しお待ち頂き、その後、大祭講師の教話を教会長として参拝者の前の普段の御結界の位置にて隣で座って聞きながら、大祭と十日祭の準備など寝れぬ日が続いていたものですから、気は張っていたつもりでしたがつい、うたた寝をして講師の先生に声をかけられて飛び起きた記憶があります。
恥ずかしい思いもし後の教会長挨拶で参拝者にも謝りお詫びを申したことでありましたが、お直会でも他の先生方に酒の肴にされるようにからかわれてしまいました。
それでも、神様、御霊神様から「お疲れさん」と声をかけられたように、疲れと力みを取り除いてくれたように、後の御用は普段通りの心でさせて頂くことが出来たようなことで、うたた寝もおかげで寝させて頂けたのかなあと感じたことです。
信者ですさんも大祭の後、お直会の片付けも終わった後、それまで一生懸命に御用されたことに、神様がおかげを下されたのかも知れませんね。
神様を身近に感じさせて頂けることは、本当に有難いことだと思います。
今回も返信ともつかぬ内容でしたが、今度は10年後とは言わずに、よろしくお願いしますね。
(1月27日に「信者です」さんよりお返事を頂きましたが、編集長への返信のようなので掲載は致しません。)
有り難うございました。