皆様いかがお過ごしですか。
五月を迎え、新緑も目に鮮やかに感じられる季節となりました。
天地を見わたすと、どこまでも神様のお働きが満ち満ちておるようにも感じさせて頂ける季節であるとも思うのであります。
信心させて頂いていると、テレビを見ていても、世間話をしていても、雑誌や新聞を見る中にも、いろいろの話の中に、ふと信心で考えさせて頂けばどうであろうかと思うことがある。
聞こえてきたり、見たりする物の中には、楽しい話題や笑顔と共に、事件や事故、戦争などの目を背けたくなるような憤りを隠せないような話題も最近では特に多いように感じるのです。
天地の親神様は天地を一目に見ておると言われるが、親神様としてご覧になられて、どう思うだろうかと思う。
自己中心的に、自分の面目を守るためや、私利私欲のために、自分が良ければ、人はどうなろうが知ったことではない、というような考えが誰の心の中にも増えてきているように感じるのです。
さらに、恥じると言うことを知らない者が増えてきているように思うのです。
悪いことをしておっても、ばれてしまっても、すぐに開き直ってしまう。
逆にまだ相手を責めようとまでしておる人もいるのには残念に思う。
いろいろと気づきのおかげを受ける中には、改まりということが重要であると思うのです。
過ちを過ちと認めること、また至らない自分であったと認めることなどの、自らに恥ずかしいとの思いは持っていなくてはいけないと思う。
恥じるという心があればこそ、改まりの心にもなり、次からはもっと良くしようと努力させて頂くことにもつながるのではないかと感じるのです。
失敗は人のせい、自分の体面が保たれれば、恥とも思わないのは、向上や発展がないように思うのです。
今の世の中を神様はじっと私たちが気づき改まり助かりの道を歩きだすのを待って下されているように感じます。
ただ人間の親であっても兄弟で争っていて、度が過ぎると親から叱られることもあります。
同じように、神様も人間があまりに度が過ぎたことばかりしておると、お叱りになられることもあると思う。
この神様は、親神様でありますから、優しさだけでなく厳しさもある親であるのです。
共々に親孝行ではないですが親に喜んで頂けるような生き方でありたいものであります。