新たなる旅立ちの時こころ決め、前を見つめて、歩き出す一歩。
生かされる喜びを知り生きるとき、難儀も生かす、和賀心から。
人間はそもそも、なぜ生きているのか。
普段考えることもないと思うのですが、簡単に言えば「生かされているから生きている」ということになるのだと思います。
正直、そこには理由というものが存在しないのも事実かも知れません。
また親となる人が、さまざまな理由で子供を産んだとしても、命の限りは分かりません。
子供は生まれた限りは死にたくないと思い精いっぱい生きている。
しかし、放っておかれたら生きることもできないのであります。
子供は誰が産みだしたのか、それは人間の親かも知れないが、それだけでは生きていけないのです。
生きる環境を恵まれているということが、本来どれ程ありがたいことなのか。
宗教では、おおむね神様が人間を作られたと解いているのでありますが、天地宇宙というものの働きを神様ととらえるのならば、生命を生み出す環境を与え、進化をさせて下された神様の働きが人間の親であるとも言えるのではないでしょうか。
それは過去のことと思う人もあるかも分からないが、現実には今この時、自分自身が生かされていることの働きの中に、空気があり水があり食物がありと神様の働きがなくては、生きることすらできない私達であるのです。
それは、当たり前にあるのではないのです。
奇跡といっても過言でない状態の中で生かされているのが人間であると思うのであります。
その親神様の働きだけでも、また人間は生きられない、生かし育ててくれる人間の親なり、周りの人々の支えがあって生かされることができる。
子供からすれば「生んでくれと言うた覚えはない」というかも知れないが、せっかく奇跡的に生かされているのだから、生き方を考えてみるのもいいのではないかと思う。
どんな生き方をしていたとしても、無駄ということはないのではないか。
生きたいように生きればいいのであると思うが、親神様にしても人間の親であっても、子供達が仲良く楽しそうに幸せに生きていてもらいたいという願いは持っているのだと覚えていて欲しい。
いがみ合い、ののしり合い、殺し合う、親より先に死んでいく子供がいれば、どれだけ親として見ていて悲しいことであるのか。
個人が良いような思いもしますが、個人では生きられない、生きにくい世の中なのですから、他との関わりの中で仲良くしていく努力はさせてもらい、難儀に負けない生き方を求めてもらいたいと思います。
それが和賀心の生き方なのだと思うのであります。