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〜生きた親神を頂く〜(編集長)

 皆様いかがお過ごしでしょうか。

 最近は大雪に悩んだり、地震が心配されたりと人間にとって難儀な出来事がいろいろとあります。

 その中で悲しくも亡くなられる人もあり、信心がわかりにくくなることもあります。

 神様はおられるのか、信心する意味はどういうことであろうかと、難儀よけ、災厄よけの意味で求めるならば、ある意味当然起こってくる疑問でもあろうと思うのです。

 金光教では天地金乃神様は親神様と頂いております。

 また人間を助かってくれよと願われておられる神様であるとも教えておられます。

 大地は神様のお体であるとも教えられることもあります。

 そして天地の間のことは神様のお働きであるとも教えておられます。

 神様は人間を始め、いっさいのものを生かし育み慈しんでおられる。

 それでは人間が難儀になるはずがないと考える方もありましょう。

 ただ金光教の神様は全知全能の神様ではありません。

 神様であっても願い通りにいかぬこともあります。

 ただ願いが叶わぬこともあるからと願いをやめる神様ではありません。

 どこまでも氏子の明日を信じて辛抱して願い続けて下されている。

 天地金乃神様とは天地のお働きを見ても分かるように「生きた神様」であると私は感じております。

 生きた神様の中で人間は生かされて生きていると思うのです。

 人間の難儀は神様の難儀でもある。

 神様も好きで人間に難儀を与えることはなされていないと思うのです。

 生きておるからこそ、そのお働きの中で辛抱しきれないときがある。

 神様のおかげの中で生かされている私達にも、共に辛抱してくれ助かってくれと願いながらに、神様は体をほぐし、また長き年月にわたり辛抱をして下される。

 起こり来ることの中に難儀が起こり、そのことを受け止めるには人間には辛い苦しいときもある。

 神様もそのことは分かっておられる。

 じっと辛抱して下される中にも共に涙を流して下さり、何とかここから立ち直ってくれと、さらに願いを込めて下されているのだと思うのです。

 起こってしまったことは、どうしようもないことではあるが、そこからどう立ち直り助かっていくのか。

 信心とは、自らの生き方を見つめ直し、人間として生きる最善を尽くし、神様と共に喜び生きる道を求めることではないかと思うのであります。

 また、神様のおかげを受けて最善を尽くした上にも起こり来る難儀を、受け止め乗り越える心をお育て頂くことを願っていくのが、信心の稽古ではないかと思うのであります。

 金光教での「あいよかけよ」とは、神様や教会や信心させて頂く人とが、共に苦しみも喜びも担いあっていくあり方を、教えられたかったのではないかと私は思うのであります。

 神様に対して氏子が一方的に願いをかけるのではなく、神様からも願いをかけられていることを知って、私だけが神様にすべてを預けて楽をするのでなく、時に神様の願いも受け止めさせて頂き、神様と共に辛抱して歩ませて頂く。

 それが金光教の信心であると思うのであります。

 その中に神様の願いを苦しみとしてでなく喜びとして受け止めさせて頂くことが出来れば、神様も喜んでくださり、お力もお貸し下されるのではないかと感じるのであります。

 み教えでわかりやすいのは「信心は親に孝行するも同じこと」であります。

 親に孝行されることが信心ではありませんので、心しておかねばならぬことと感じるのであります。

 普通の親子でも同じこと、子供が満足いくまでのことをしてくれなくても、真心込めた心で一生懸命にしてくれる姿を見せられて、喜ばぬ親も少ないでありましょう。

 親の不始末でも不足を言わずじっと辛抱して親の助けになってくれる子供がいたら、この子のために親としても何かしてあげたいとも思うものでしょう。

 親子の間でも「当たり前」で流してしまうとおかげは生まれてきません。

 親子の間だからこそ「有り難う」と感謝の心も必要ではないかと思うのであります。

 神様は氏子にその心が生まれてくるのを、じっと辛抱して待って下されているのだと感じるのであります。

 共々に「生きた神様」を頂いているのだということを忘れないように信心の稽古をさせて頂きたいものであります。

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