>「われさえよければ」「今さえよければ」という風潮が蔓延しています。
私もそう思わせられます。
その中に含まれることには、今の人にとっては「自分を知る」ことと「満足を知る」ということが判りにくくなっていることが原因だと思うのです。
つまり今の人は、ただ我が儘だとか、欲が深いとかでは無いように思うのです。
何かモヤモヤと心が満たされない、これから何をして良いのか判らない。
いわば欲求不満の現れた形が「われさえよければ」「今さえよければ」ではないでしょうか。
教会であっても同じだと思えるのです。
この教会にはどういう祈り願いがあるのか。それについて今何を行うことが出来るのか。そして祈り願いを成就するにはどう行動すればよいのか。
それが「自分を知る」ことだと思うのです。
その上で、祈りを持って行動に移していく。祈り願いの中で神様のおかげでさせて頂けたこと、それが自分の思いとは多少違っていたとしてもありのままに受け入れ、神様に御礼を申し、その事柄が生きるようにしていく。
これが「満足を知る」ことだと思います。
おかげとは願い通りになることだけがおかげではないと、当教会でも伝えさせて頂いておりますが、ともすれば教会の中で祈ること願うことの中には、自分自身もそうですが、それを受け入れたくなく、あがきながら一心に神様に不平不満を申し上げている。
それを自分は祈っている願っていると勘違いしていることもあるのではないでしょうか。
今の世の中、物質が溢れかえることにより、満足感を感じることも難しいと思います。
けれども、人間満たされている満足感があると他に対しての心のゆとりも生まれて優しくなれたり心遣いが出来てくる。
それは偽善であったり傲慢であったりするのかも知れませんが・・・。
今あることをあるがままに受け入れて満足出来れば一番良いのでしょうけれども。人と同じ位でなければ安心できないのも人間の悲しい性であります。今は情報として世の中に可能性が沢山あるのを見ることができる。人間知ってしまうと自分と情報とを比べてみてしまう。
昔であれば、今の生活に満足感を得られるものが、世の中と比べ、その満足で許されないと思わされてしまう。そこに難儀が生まれると思うのです。
それよりは、今ある物をいかに生かすのかという方向に向けていく方が現実的だと思います。
今テレビなどで家のリフォームの番組があったりしますが、同じ所であっても達人と呼ばれる人が少し手を加える。
自分たちが「これはこう使う物」という既成概念によって作られた使いにくい見た目も悪い部屋を総て取り払って、元とは違う使い方、同じであっても心をくばった使い方をするように変化させていく。
そうした利用方法や見た目を替える。心を細部にまで配ることによって見違えるようになってしまう。
その家の人もどうしようもないと諦めていた中に、思い描いていた希望の部屋が、生み出される現実によって満足感を得ている姿を見て、ただ新しいだとか何かが欲しいとか他に求めていた物が、実は自分の足下からでも実現させることが出来るという喜びに気づいたのだと思ったのです。
信心とは心のリフォームなのかも知れません。難儀で一つの考えに固執し、他を責め、自分の現実に嘆く。その他の考えが出来なくなっている所を、自らの心を一つひとつ改め、難儀があってもそれを補うあるいは生かす道を伝えていく。そうしないと自分のことと言っても見えなく、知ることも出来ないと思うのです。
「自分が変われば世界が変わる」と何かで教えて頂いたことがありますが、その通りだと思うんです。まず自分が変わってみなければいけないと思うんです。
教会とは、目に見えない所に心を配る、心のリフォームの達人であり、自分を変える稽古場所でありたいものです。
具体的にどうすればいいとは私も言えませんし、ここまで書いていても出来ていないのが現実ですが、今は無理でも出来るように努力することは誰にでも出来ると思うんです。
「われさえよければ」「今さえよければ」という風潮が蔓延しているからこそ、伝えるべきことが何かあるのではないでしょうか。
共に祈っていかねばならぬ問題だと思います。
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