「有り難うございます」
私達を含め一切のものは天地の間に生かされて生きております。
信心を判ってきた人にしてみれば、神に生かされているだけと思う人もあるかも知れませんが、私が思うには、神様の御神願に添い奉り、一切の人間心を廃して神任せに、本当に真の信心をし、その上で神の手代わりのごとくでなければ、神様に生かされているだけとは申せないと思うのであります。
人間心があり、情が生まれ、悩み、心配している間は、神様に生かされていながらも、その中で御無礼し、不行き届きにめぐりを積み重ね生きているのだと思うのです。
それでも神様は生かされる中に生きている人間を「神の愛し子」でありながらも「難儀な氏子」とみて、たえずおかげを下されながら、そのおかげを通じて気が付いてくれ、助かってくれと願い続けて下されているのです。
信心させて頂いているものは、まず生かされている存在であることを知ることが大切だと思うのです。
そうすれば、神様に対しお礼を申す心も、お詫びを申す心も、神様に使われる心も、自ずからに生まれてこようかと思うのであります。
おかげを頂くということも、何がおかげであるのか、病気や怪我もおかげなのです。
生きるも死ぬるもおかげなのです。
幸せとは何を持って幸せなのか、信心の上では人の痛み苦しみが判るようになれることが幸せであると思うのであります。
病気や怪我が治ったことがおかげではなく、病気や怪我の痛みを判らせて頂いたことがおかげなのです。
他人が、自分とは病気や怪我が同じではなくても苦しんでいるのを見れば、自分の痛みを思い出し神様にその難儀な人を祈っていくことが出来る。
出来ることなれば手助けをすることも出来る。
人の痛み苦しみが判らない人は、神様から見れば、生かされていることすら気づいていない「救いがたい難儀な氏子」だと思うのです。
人間を含め一切のものは天地を離れて生きることは出来ません。
それゆえに天地の間に生かされて生きるものは互いに助け合い天地の恵みを分け合って、あいよかけよで生きるしかないのです。
和らぎ喜ぶ心とは、自分一人では生まれては来ません。
他とふれあい神心を現し合う中に生まれてくるのだと思います。
共々におかげを蒙らせて頂きましょう。