『暑気払い暑さ忘れる勢祈念/人思うほど神に向かいて』編集長
暑さが続く毎日、セミの鳴き声に夏の季節があらわれます。
それでも徐々に山の自然の花は、夏から秋にと姿を変え始めて、カブトムシ、クワガタ、カナブン、チョウチョ、スズメバチなど、昆虫も今が盛りとエサの樹液を奪い合う姿なども見られます。
イトトンボ、カワトンボ、シオカラトンボ、オニヤンマ、アキアカネとトンボが飛び交う姿にも季節を感じるものですね。
皆様いかがお過ごしでしょうか。
8月を迎え暑い日々が続きますが、暦の上では8月7日に立秋を迎え、秋の残暑になりますね。
月日の過ぎゆく早さを感じると共に、私事、8月は私の誕生月でもあり、ここまでお育てを頂き御用に使って頂けていることを、神様に感謝させて頂くと共に、これからの御用成就を願うものであります。
その神様に願いをさせて頂くということ。
信心の上では当たり前のように願うという行為をさせて頂くのでありますが、神様に願うだけで物事が解決することはありません。
当然、自らの改まり努力ということが伴って、失敗してもあきらめずに前に進むことを続けることで、始めて助かりに向けての道が開かれてくるのであります。
道が開かれても歩み続けなければ解決は致しません。
願うという行為は神様に誓いを申しあげ、覚悟を決めることではないでしょうか。
その中で独り善がりな願いになっていないかを問うてみることが金光教の取次ではないだろうか。
いわば子供が親に相談をするようなことが信心であると感じます。
親なれば子供が幾つ何十歳になっても、親から見て子供であります。
つまり、神様も親もこの世に産み出して下さり、世話をして下さり、子供が一人前のような口を申すことが出来るようにまでお育てを頂いても、心配もし親身になってくれるのであります。
それと成人しても難儀の中で親身に話を聞いて下さり、叱ってくれるのは親だけであります。
誰しも木の股から生まれたのではない、どんな親であっても親あればこそ生まれることもできたのであります。
育つという中には、実の親もあれば育ての親もあるでしょうが、教えてくれる教えの親もあります。
親に難儀を聞いてもらい助言をもらって心元気になり、見方、考え方を改めて働きが出来るようになれば助かっていくのも、ひとつの道理のようなものであります。
その働きが金光教の御取次であり、一生死なぬ親神様でもあります。
金光教の信心は親に世話になり、喜んでもらえるように生きる事でもあります。