書き込み有り難うございます。
>金光教に対する熱意に満ち溢れた内容ですね。
有り難うございます。ただ熱意に溢れているかどうかは疑問に思うのですが。
さて私の場合、教会に生まれて、お広前で生活させて頂き成長させて頂いた者です。
信心としても、自ら求め改まったものというより、どっちかというと生活の一部なんです。
そのため信心させて頂いている人から見れば贅沢というか、ご無礼かも知れませんが神様を身近に感じすぎているんだと思います。
>神様に対する先生の神観がご自身の言葉で語られてありました。
金光教での神観は、不思議と皆、違うんですね。統一的な見解がないというか(本来はあるのでしょうが・・)、金光教学院(教師育成機関)でも神様とはこういうもの、こう頂き、こう伝えなさい。ということは教えてはくれません(あったかもしれませんが聞いてなかったかも知れません)。
生活する中、み教えにふれる中、話しを聞く中に、神様をどう感じたか、それは各々に任されているんです。
そのため、地域性や、個人個人、先生の生きられ方に大きく左右する面があります。
私にとっての神観は、あのような内容になるのですが、他の先生からみれば、ハッキリ「違う!」と言い切られるかも知れません。
それと共に、教師であってもまだまだ勉強不足な私ですから、本来、金光教で伝えるべき言葉などが見つからず、間違っているかも知れない中にも、今まで感じたことなどを自分の言葉で語るしかできないんだとも思います。
>なかなかここまで踏み込んでの話は伺ったことがありません。
ハッキリ言われると、また言い過ぎてしまったかなとドキリとしました。
普段からそうなのですが、話しは難しいのです。
言わなければならないことが抜けていたり、言ってはならないことまで言ってしまったりしている時があります。
神様に対しても、改まったり仰ぎまつるという頂き方が出来ておらず、礼儀を欠いた横着な態度であるために、伝える時にも私の頂き方が、そのまま出てしまうことがあります。
実際、反省点も多いのです。
信徒Aさんも、何かのおりに教会で先生に伺ってみてはどうでしょうか?
金光教では、その人、その人の助かりを祈るために取次者から一方的に話しをしていくことは少ないものです。
けれども、聞かれてきたら皆それぞれに思い願い祈りがあるために、話してくれるかもわかりません。
私とはまた違った神観が聞けて、信心させて頂いていて有り難いと感動できるかもわかりませんよ。
どちらかというと当教会ホームページは内容的にも人間味が多いというか、良い意味か悪い意味かは分かりませんが変わってる面も多いと思います。
そういう考え方もあるんだと参考程度に読んで頂いて、感じたことなど気軽に私に教えて下さい。
喜んで待ってます。有り難うございました。