日常の中に幸せ感じれる、心にゆとりあるが故にか。
他を祈る心なれるも常日頃、神を感じる和賀心から。
以前にも書かせて頂いたと思うが新ためて思う。
人間も多くいるといろいろな考えを持った人がいる。
風流韻事と自然を眺め花が咲いていれば奇麗と感じ歌の一つも創ってみる。
また良き人と出会う中にむつみ楽しむこともある。
しかし、心にその自然なり、人なりを受け入れることが出来る心がなければ、花を見ても奇麗には見えず踏みにじり、良き人にあってもうらやみ憎むことになる。
我が心の中にあるであろう見たものを映す鏡が曇っていたのでは、目の前に自らの幸せがあっても気づかないということになりはしないだろうか。
難儀の中に苦しんでいる人は、どうしても、そのことに囚われてしまい、せっかく助けに来た人にも気づかないということもある。
ある意味、致し方ないともいえるのであるが、それではいつまでたっても助からない。
それでも意外に簡単なことから助かっていくこともある。
子供だましといわれるかもわからないが、目先を変え思い方、感じ方を変えることである。
「痛い」ということから「苦しい」「つらい」を感じるのではなく。
「痛い」という中に「生かされている」と感じ喜びに変えてみる。
例えは悪いがマゾヒストの被虐願望に近いものかも知れない。
苦しさや辛さの中に、どっかりと腰を下ろして味わい楽しむくらいの覚悟はいるのかも知れない。
つまり目先を変えるような考え方でも、頭で考えているうちは本物ではない。
「痛い」と思った瞬間に「ありがとうございます」と反射的に言えるくらいが本物だろう。
人間の中には感情が追いつめられたときに、限界を超えると無意識にでも別の何かが弾けるようなときがある。
しかし、中途半端に何も信じず、思い換えも出来ず苦しさの中で生きていくというのは、弾けることもできず、ただ苦しいだけで辛抱しきれないものがある。
では信仰の中での感じ方はどうであろうか。
宗教の世界に生きる人は、神様なり仏様を信じる中に、いつか必ず助かるときがくる、助かってみせる、助からねばいけないのだという思い、助かりたいという信念にも似たものがどこかにある。
しかし信仰が深まるほどに、どう頑張ったところで己という者の無力さがわかってくる。
さらに無力であるが故に神様や仏様に傾倒するということにもなる。
そういう中にも難儀や苦しみは常に起こってくるものである。
助かりたい一心から理由付けというか悟るのである。
「これは私を育てる試練である」「神様が私を試そうとしているのである」
その中で、他人にも目を向けると自分と同じ難儀な人が多い。
修行という観点から己の助かりたいという欲望を、人も助けたいというところにまで昇華していく。
そうなると、だんだん人の助かりと己の助かりがつながってくる。
しかし、そうなればなるほど人の苦しみまで背負うように苦しくなってくる。
無力の己であるとの思いであるほど、心の底から欲望のように神様や仏様に祈りたい祈らずにおられないという心も現れてくる。
さらに、祈りだけでも足らないと「どうすりゃ助けられるだろうか」と求める中に、自らの体験や知恵を話して伝えることで、少しでも人の助かりにつなげていこうとする。
人によっては奉仕という形で体を使って現すこともある。
そうする中で他人の中にも助かる人が生まれることもある。
そうなれば自らの喜びにも感じられる。
しかし、喜びから人と関わるほどに、また苦しみ難儀と向き合うことにもなる。
そうすると、どこまでいっても終わりがない。
苦しみと喜びを常に味わい、少しでも喜びを増やしたいと、さらに修行に励む。
結局は終わることなく一生が修行ということにもなってくる。
これですべてが終わった、やれやれというようなことが正直無い。
周りから見れば無駄なことに見えるかもわからないが、それで本人はそれなりに助かっているのである。
悪いこともあるが良いこともある、それを感じることが出来る。
難儀はおかげの元だと感じることにもなるかもしれない。
そういったことが信仰の一端ではないだろうか。
そこまでの道のりを体に鞭打つように厳しい修行から行く人、無理せずゆっくりマイペースに行く人、いろいろあるのだと思う。
ただ宗教は問題や難儀から逃げることではない。
逆に人からなぜそこまでと言われるほどに難儀に向かい受け入れていくことが宗教なのだと思う。
「宗教するようになって、よけいに難儀なことが増えた」と言われるような方は、宗教を難儀からの逃げ道や逃げる手段にしようとしている人ではないかと思う。
宗教や信仰は問題や難儀を乗り越える力、言うなれば「生きる力」を稽古するのであって、逃げることでの解決は一時しのぎでしかなく、根本の自分自身のあり方、生き方を改めていくことが信仰であり宗教なのではないかと感じるのであります。
それ故に同じ状態の難儀の人でも信仰のない人には難儀なことだけで終わることでも、信仰のあるおかげで、問題や難儀を乗り越えたとき喜びに感じることも出来る。
信仰はそれぞれの人が個別に求めるべきもので、教えてどうこうというものではない。
また代参なども聞くが、代参での助かりは、代参してもらう人が、そのことをどう受け止めているかにかかってくる。
代参してもらう人が、よけいなことをと怒る状態では、参拝された人は信心の稽古になるが、代参してもらう人の助かりにはつながりにくいと言うことを感じます。
宗教や信仰の信心で助かるために大切なことは最初に神様や仏様を感じる心があるか、ないかにかかっているのではないだろうか。
神様や仏様を感じられる心、和賀心になる稽古がまず必要なのだと思います。
さて心の柔軟体操で、花を見て奇麗に感じられる心になりたいものです。