最近の私は、気分が散漫しています。
私自身やらねばならぬ御用が沢山ある中で、あれもこれもと手を出しながら、注意不足になっていたり、仕上がりになりにくいのです。
何が不満とか問題があるとか気になる事があるとか、そう言った事は特にないのですが、自分でも気づいていないのかも知れません。
心は満たされていると思うんです。それ故なのか、がむしゃらに熱中して没頭できる事が浮かばないのです。
人間とは難儀なものですね。なければないで不足に思い、あればあるで不満に思う。
私の場合はほどほどが居心地が良いのだと思います。「足りるかな、足りないかな。」と思いながら「よかった。丁度だった。」というのが好きなんだと思います。
それは一つひとつをゆっくりでも続けてさせて頂いていたら一つひとつを終わらせていくことが出来ていく。当たり前に思える事の中にあるおかげが好きなんだと思うのです。
御教えで「一心になる」ことを教えておられますが、教祖様曰く「自分自身が一心にはなかなかなれない」のだそうです。
それはなぜか「一心を求めて祈っていて今一心になったと思うという事は、自分を見つめる二心がある」という事なのです。
つまり、どこまでいっても自分では一心になっていることは気づかないのが一心なのです。
けれども、一心になれないなら一心になるように祈る事は無駄ではないかと思われるかも知れません。
けれども「一心を求める心の大切さ」はあるのではないでしょうか。
私が今伝えたいのは、気分が散漫だからといって何もしないのではなく、気分が散漫であっても一つの事を成し得れるように諦めずに求めていきたいということです。
それでも信心させて頂くものとしておかげを受けていることに感動できる心に改めねばと思っております。
共々に信心の本質を見つめ、おかげを蒙らせて頂きましょう。
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