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〜心の改まりについて<掲示板89>〜(編集長から返信)

いつも有り難うございます。

早速のお尋ねの内容、

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>私感を述べることお許し下さい。

>安政二年 教祖が「のどけ」の病をなされた時、おさがりになった神様に教祖はただ「凡夫て相わからず」と完全自己否定なされていらっしゃる様です。そこに神様と教祖の世界が開けて行ったのではと思わせて頂きます。

>そこに信心の始まり、心の改まりが展開して行くのではと。和賀心は神様からいただくものでは

>分からないままに述べさせて頂きました。人心から神心になることをお諭し下さっています。

>「心の改まり」に関して恐縮です、ご理解いただければ幸いです。ぶしつけな内容になったことをお許し下さい。

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「心の改まり」についてでありますが、この文章から、どの内容の心の改まりを求められているのか、私の受けようが少し悪いのかわかりかねますので、最初のところから申させて頂きたいと思います。

最初に安政2年の教祖様が、42歳の時に受けられた「九死に一生」の大患のことでありますが、神様と教祖様の世界が開けていく中でのやりとりでありますが、『ただ「凡夫て相わからず」と完全自己否定』されているのではないと思うのです。

その前から教祖様は、いろいろと神仏に参って信心をされていたのでありますが、書物を見させて頂いたり、研究されている先生の話を聞かせて頂くに、教祖様自身、家を建築されたり、するときに、すでに金神様にご無礼していることは知っていたようでもあるのです。

その時にも、すでに同じように金神様に「凡夫て相わかりませず」とお許しを願ったり、神様として仰ぎ奉るということはされたようでありますが、実際として考えると、その時代の教祖様の立場からすれば、多少、無理を通したところがある。

しかし、後の大患になる時までは教祖様自身、いろいろと信心させて頂いていても、神様の声も聞えず、答えてももらってもいないわけでありますから、信仰心はあついのだけれども、ハッキリと神様を実感することがなかったのではないかと思うのです。

そうしたことを考える中に、大患にかかって、祈祷をしていただくときに、神様から「ご無礼をしておる」とハッキリお言葉を頂き、自分もやはり多少なりとも、ご無礼していたと知っているのですから、ただお詫びをするだけしか道はなかったのだと思うのです。

けれども実際には「のどけ」でありますから、もちろん声が出ない。

布団の中で、心の中で神様に改まりを述べる気持ちしかなかったのだと思うのです。

先の元気な時に申したのとお詫びの内容は同じかもわからないのですが、今度は実感として、その神様とのやりとりの中で、神様に一心にお詫びを申したい、その一念が神様にも届いたのだと思うのです。

さらに、これまでに頼みすがった神仏も自分のために金神様にお許しを願って下さり、そのおかげが「のどけ」であったことを知るのに、感謝の気持ち、御礼の気持ちもこみ上げたと思うのです。

そのことがすべてあった上で、すべてを神様に任せてお詫びを申しておられる。

私は自己の否定と言うよりも、素直にご無礼をしておる自分であるということを受け入れた。

その上で、すべてを神様に任せて、さらにお詫びを申していかれた。

その生き方が神様の御心にかなったのだと思うのです。

どの時代もそうですが、自分が過ちを犯していても、なかなか素直にそれを認めないものです。

どこまでもそれを否定して罪を免れようとする。

それは、人間の欲の中の「生きたい助かりたい」という働きだと思うのですが、教祖様は「心の改まり」としてそのことをしなかった。

つまり、自分が過ちを犯した時に素直に認め、神様に対して命の生死をゆだねられお詫びを申された。

そのお詫びの中身も、ただ詫びる気持ちではなく、これまで頂いたおかげへの御礼も含まれていたのではと思うのです。

その姿を見る中に、神様に許されて助けられたのでありますが、そこで神様と教祖様の世界が開けて行ったのではないかと思わせて頂くのです。

後々、神様は教祖様に対して、いろいろとお試しをされたり、子供の生き死にのさなかにも、神様の言葉をお下げ下さるようになったのですが、教祖様はどこまでも、それを受けて、素直に実行し続けたのです。

私はそれを思う時、教祖様は、神様に対して命を救って頂いた御礼と、日々犯しているご無礼へのお詫びの心があられたのだと思うのです。

私が思う「心の改まり」とは、否定ではなく、受け入れるということだと思うのです。

さらに言えば、真実、その受け入れたことを生かすということではないかと思います。

>和賀心は神様からいただくものでは

とありますが、私が思うに和賀心も「心の改まり」から展開できると思うのです。

誰もが神様からはすでに日々おかげを頂いていることだと思います。

そうすると、その日々頂いているおかげを、おかげと素直に受け入れて、喜びを現わす。

それが、受け入れたことを生かすということになり、和賀心になるのではないかと思うのです。

>人心から神心になること

もまた「心の改まり」から展開できると思うのです。

すなわち、自分の痛みだけでなく、他者の痛み苦しみをも受け入れることが出来た時に、その人の助かりを心から願うことが出来る。

それが私の思う「受け入れたことを生かす」という「心の改まり」であり、人心から神心になることだと思うのですが、どうでありましょうか。

多少、史実等々のことは、習い覚えただけで研究したわけではありませんから、教祖様の心のあり方には自分の思い感情が含まれております。その点は、新たに御本部にて発行された「金光大神」を参考にされてはいかがでしょうか。

ただ私の思いようゆえに過ちがあるかもわかりませんが、ご容赦下さい。

あなたの質問された内容にはなっていないかもわかりませんが、またお聞きになりたいことは、気軽にお尋ね下さい。



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