前回、返信という形で述べさせて頂きましたが、今回は私の思いという形で述べさせて頂きます。
前回でも取り上げましたように、教祖様は42歳の大患のおり、実感として神様と出会われたわけでありますが、私がなぜ「完全自己否定」ということを言わなかったのかを、もう少し続けさせて頂きます。
私が思うのに「完全自己否定」ということになりますと、それまでの教祖様が生きてこられたことすべてを否定するということになりはしないかと思ったからです。
あの大患のおり、教祖様の病気全快を祈祷された時の教祖様の「覚書」の中にて、
───────────────────────────
『四月二十五日ばんに気分悪し。二十六日病気増し。医師服薬、祈念、神仏願い、病気のどけ(のどの病気)に相成り。もの言われず、手まねいたし、湯水通らず。九死一生と申し。私は心実正、神仏へ身任せ。家内に、外へ出て仕事いたせと手まねいたし。
身内みな来て、小麦打ち、てご(手伝い)してくだされ。小麦打ちやめて心配、とてもいけんと、もの案じ。宇之丞を育てにゃよかったにのう。死なれてはつらいものじゃと、みな思案いたし。仕事どころかと申し。それでも、なんでも早うにかたづけて、神様願うよりしかたなし。親類寄って、神々、石鎚様、祈念願い申しあげ。
新家治郎子の年へおさがりあり。普請わたましにつき、豹尾、金神へ無礼いたし、お知らせ。妻の父が、当家において金神様おさわりはないと申し、方角を見て建てたと申し。そんなら、方角見て建てたら、この家は滅亡になりても、亭主は死んでも大事ないか、と仰せられ。
私びっくり仕り、なんたこと(なんということ)言われるじゃろうかも思い。私がもの言われだし、寝座にてお断り申しあげ。ただいま氏子の申したは、なんにも知らず申し。私戌の年、年回り悪し、ならんところを方角見てもらい、何月何日と申して建てましたから、狭い家を大家に仕り、どの方角へご無礼仕り候、凡夫で相わからず。方角見てすんだとは私は思いません。以後無礼のところ、お断り申しあげ。
戌の年はよい。よし。ここへ這い這いも出て来い、と。今言うた氏子の心得ちがい、其方は行き届き。正月朔日に、氏神広前まいり来て、どのように手を合わせて頼んだら(頼んだか)。氏神はじめ神々は、みなここへ来とるぞ。
ここまで書いてから、おのずと悲しゅうに相成り候。
金光大神、其方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも読むに、神ほとけには口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、思うて神仏悲しゅうなりたの。また元の書き口を書けい。
神々みな来ておるぞ。戌の年、当年四十二歳、厄年。厄負けいたさずように御願い申しあげと願い。戌年男は熱病の番てい(番であったぞ)。熱病では助からんで、のどけに神がまつりかえてやり。心徳をもって神が助けてやる。吉備津宮日供二度のおどうじあり、もの案じいたしてもどろうが(もどったであろう)。病気の知らせいたし。信心せねば厄負けの年。五月朔日験をやる。金神、神々へ、礼に心経百巻今夕にあげ、とお知らせ。
石鎚へ、妻に、衣装着かえて、七日のごちそう、香、灯明いたし、お広前五穀お供えあげ。日天四が、戌の年、頭の上を、昼の九つには日々舞うて通ってやりおるぞ。戌年、戌の年一代まめで米を食わしてやるぞ、とうえの五郎右衛門(古川治郎)口で言わせなされ。
持っとる幣が、五穀の上、へぎの上、手をひきつけ、幣に大豆と米とがついてあがり。盆を受け、これを戌年に、かゆに炊いて食わせい、と仰せつけられ候。
しだいによし。五月四日には起きてちまきを結い、ご節句安心祝い。おいおい全快仕り、ありがたし仕合わせに存じ奉り候。安政二乙卯五月、四十二歳。同じく四月二十九日夜、願いすみ。
一つ、私四十三歳の年、丙辰の年まで身弱し、難渋いたし。
一つ、私、病気難渋のこと思い、月の朔日十五日二十八日三日、朝の間かけて一日と思いつきて、神様へ御礼申しあげ、神々様ご信仰仕り、願いあげ奉り。』(金光教教典 金光大神御覚書抜粋)
───────────────────────────
と記述されております。
この記述を見させて頂きますのに、教祖様は金神様に対しても無理な建築を進めたことをお詫び申される中にも、人間として出来る限りの心を尽されており、また42歳の厄年のことにても、神仏にも願われており、わからぬ中にも心を尽されておられる。
これらの生き方の中にもまだご無礼があるのだけれども、最後に「すんだとは私は思いません」と申されておる。
それで金神様から「其方は行き届き」と言われる。
また続けて「正月朔日に、氏神広前まいり来て、どのように手を合わせて頼んだら(頼んだか)。氏神はじめ神々は、みなここへ来とるぞ。」と教えて下されるのです。
そのことを考えるに、「完全自己否定」ではなく、今まであったわからぬ中にも信仰あつくされていたことは良いこととして、受け入れられ、また、自らのわからぬ中に金神様に対してのご無礼していた悪いところも受け入れて認められた。
今までのことを、ありのままに良いことも悪いこともまるごと受け入れて認められたのだと思うのです。
さらに、神様と出会われてから後は、神様の申されるとおりにいたし、それまでの体験も、それから後の体験もみな、生かして伝えるようにされた。
だからこそ、後々の記述にて「ここまで書いてから、おのずと悲しゅうに相成り候。金光大神、其方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも読むに、神ほとけには口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、思うて神仏悲しゅうなりたの。また元の書き口を書けい。」という心境に至ったのだと思うのです。
私はそれらのことを思う時、確かに教祖様はこの大患の時に神様と出会われ「心の改まり」をされたのですが、この時の「心の改まり」は『ありのままにすべてを受け入れて認められて、これからの生き方に生かされたこと』だと解釈したのであります。
時代は確かに変わったわけではありますが、現代においてもどうでありましょうか。
私たちは日常生活を営む中に、知らず知らずに良いことも悪いこともしているものであります。
教祖様のように誰も神様を直接実感した人は現代では少ないのではないでしょうか(中には体験ある人もあるかも知れませんので)。
それに、普段の生活の中で考えてみても、自分がしたと思っている良いことは受け入れて認めるのですが、他人からでも教会の親先生からでも「お前ここは間違っておりゃせんか」と追求された時に、素直に認める人が多いでしょうかね?
私の今までの経験では「そういわれても」と反論されるか、あるいは「それじゃあどうすればいいんですか?」と開き直られるかどちらかの対応が多いように感じます。
心から素直に悪いところを受け入れて認めて、お詫びを申して生き方を改めて、他人や親先生の言われた言葉を生かされる人がどれだけおられるでありましょうか。
たいていであれば、どうにもこうにもならないような問題にぶつかる中で、神様から強引に気づかせられて認めさせられる。それを取次にてお詫び申し助かるように願い、今後の生き方を御取次頂く。
そういうような信心になってはいないでありましょうか。
「完全自己否定」という言葉の中には、自分の我情我欲的な思いを打ち消さなければ、素直に受け入れて認めにくい人間の本質があるのではないかと思うのです。
私も人間でありますから、その思いもよく分かる。
日常生活ではよく反論したり逆らったりしていますから、なかなか素直にありのままを受け入れることが出来ない。
けれども、信心ということで思わせて頂くと、私は良いこともするけれども悪いこともする人間であることを受け入れて認め、その上で少しでも良い生き方になるように日々努力し、神様のなされることに無駄事はないと信じて、日常生活に起きてくる良い出来事も悪い出来事も生かすという稽古させて頂く、その必要があるのではないかと思うのです。
それが私が求めさせて頂いておる「日々の心の改まり」の信心だと思うのであります。
金光教という宗教は面白いもので、金光教という核になる信心は同じなのだけれども、先生でも信者さんでも、その体験や祈り方の枝葉がみな違うのですね。
祈り方一つとってみてもみな違う。
そうすると受け止め方や生きられ方もかわるわけでありますから、私のこの「心の改まりを思う」ということについても、見解は様々にあると思うのです。
読まれた方は「ああこういう見方もあるのだな」とそういうとらえ方で読んでもらえれば有り難いと思います。
人間の本質から言えば「完全自己否定」というとらえ方も、あながち間違いではないのですから、それぞれに悩み求めて、信心を深めていってもらいたいと思います。
私は『ありのままにすべてを受け入れて認め、これからの生き方に生かすこと』だと思います。