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〜心を向ける稽古〜(編集長)

 皆様いかがお過ごしでしょうか。

 2月を迎え月日の流れる早さを感じます。

 それでも御広前の片隅で一人お茶を頂くことがあるのです。

 そのホッと一息をつくような瞬間に、御神前や御霊前を眺め、祈るでも願うでもなく、ただに心の中で語りかけてみるという時があります。

 私は正直、霊感的な感覚はないので、いろいろと御教え下されてあること、聞かされてきたことなどから、今神様はこう申されているだろうな、御霊神様はこう感じて見ておるのだろうなと思いをはせながらふと感情が高鳴り、我知らずに涙が流れて止まらぬことがあったのです。

 その時に感じたのは伝え切れぬ思い、切ないまでの祈りが私達にかけられておるのだなと相済まない思いになり、至らぬ信心のお詫びを申して、何事も人ごとではない、私の事としておかげを頂こうと祈らせて頂いたことでありました。

 人間同士でも相手を思う、気づかうこともあるかと思いますが、相手のすべてが分かるわけではありません。

 ただ心の一端を知ることの手がかりくらいにはなるのではないかと感じるのです。

 自分の身に起こる難儀というもののとらえ方には、相手と共通する思いを知れるおかげも含まれていると思うのです。

 金光教の信心では難儀な人を祈らねばならないとの思いでは助かりません。

 我が身の苦しさを思い出しながら祈らずにはおられないとの思いであれば助かるのだと感じるのです。
それぞれその立場になってみないと分からない難儀もあるものです。

 神心になることを金光教では教えられますが、それは神様の立場、神様の心に我が思いを近づけ向けていく稽古ではないかと思うのです。

 その時に何に気づくのか、神様の思し召しのままに生きる生き方もあるのです。

 無理はしなくてもいいと思うのですが、あきらめたらそこで終わってしまいます。

 信心は棚ぼたではありません。

 日々の積み重ねが大切であると私は感じさせて頂きます。

 神様の祈りは皆様にもかけられております。

 共々におかげを蒙りましょう。

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