お世話になります。
いろいろと語らせて頂きましたが多少でもお役に立てたのでしょうか?
あなたが申された「はかりごとを捨てる」ということ。
このことは私も大切だと思います。
いろいろさせて頂くのでも、神様にお願いする前に「おかげを頂けん」と先に自分で決めてお取次される方があるのですが、それでは神様のお働き下される場所がないように思うのです。
おかげが受けられるか受けられないかは神様の決めることであり「神任せ」とは自分の「はかりごとを捨てる」ということだと思うからです。
さて「心」ということを考える時に、いろいろな段階があると思うのです。
いわゆる「人心」我情我欲を含めて生きたい助かりたい楽したいなどなど、一般的な心です。
次に、「教会のお取次をされる先生の心」神様の心もある程度わかり、参ってくる人の心もわかられた心です。
さらに「御本部の教主金光様の心」より神様の心もわかられ、参ってくる人にもその思いをそのまま伝えられる心。
そして「教祖様の心」神様からも同根と言われるほどの心、語られることが神様の心そのものな心。
最後に「神心」ここでの神心は、純粋な意味での神様の心。
これらで、どこが違うのか思ったことに、神様を伝える心のありようだと思うのです。
教主金光様の心と教会の先生の心は違うのかということになると、同じような先生もあられるが、そうでない先生もあられる。
つまり、教主金光様はどう受け取られるか、また後をどうするかは「神任せ」にされておられると思うのです。
もちろん、その裏には神様に絶え間なく、すべての人の助かりを願われている上でのことであります。
神様の心となると、実際、かなり厳しい内容のものもあります。
本当に神様にご無礼して叱られている「罰」に近いものの時や、我が子の病気のことであっても、年に一度の祭り日に病気をした時など、神様は教祖様にも「かわいいと思うな、打ち殺してしまえ」とお知らせになっているほどです。
実際、教祖様も、どうなろうと御用を第一にされた。
現代の教会で「お祭りの日に病気しました」と言うても、あまりその人を責めるようなことは伝えんでしょう。
「お願いさせて頂いておくから、無理しないように安静にして、元気になったら教会に参っておいで。」
そう言うことも少なくないように思うのです。
もし厳しく言ったとしたら、次からは参ってこないことになるということがあるからです。
教会の場合は、少しづつ時間をかけながら、相手に受け入れて頂くように細くても長く信心を続けて頂くということが重要になる。
教会での取次は、どうしても、参ってくる人の心に合わせた取次が必要になるんですね。
しかし教主金光様は違いますね。
一期一会のような厳しさを持っておられる。
後でその者が参ってくる参ってこないは関係ないのです。
神様の祈りを素直に受けられて真に信心を求めて参ってくる氏子だけでいいのです。
当教会長が以前に前の四代教主金光様に
「御本部の大祭に一人でも多くの氏子が参拝させて頂けるおかげが受けられますように」
とお取次を願われたところ、
「あのなあ、大勢参ればおかげというものではないでありましょう。真の信心いたしておかげ受け、御礼に参られるのが大切なのでありましょう。御本部の祭場でもなあ、いつも大勢参られるが、真の氏子が一人参られただけでもおかげであります。それで構わないのじゃ。無理に参れとは決して言うなよ。」
そう申される。
正直、当教会の場合は、参拝の前には予約してバスを借りたりしておるので、そのお金を払うにも参拝する人が、一人でも多いと有り難く、また心ならずも他の教会と比べてみたりして、少しでも多くと見栄の心が出てくる。
そこに教会の先生の心と教主金光様の心の価値観が違うのだと思うのです。
教会はある程度、「教会運営」という人心のはかりごとも計算しなければならない時もある。
本当は「死んだと思うて欲を放して」と言われているのですから、すべてを神様に任せればいいのでしょうが、それには「徳」ということも大いに関係してくると思うのです。
本来は「徳」がつくまで辛抱させて頂き、「徳」をもって御用させて頂くのが筋でありましょうが・・。
教祖様は「徳」が出来られるまで、いろいろと苦労も辛抱もされているのですから、だからこそ42歳までになられた。
当教会でも、初代は46歳から布教されたのですから、それまでは大変な苦労も辛抱もされた。
それが「徳」積みの修行になられたのだと思うのです。
しかし後に続く者は「徳」がつくまでは辛抱して待つこともできず、わからぬ中に人心のはかりごとも取り入れながら、御用させて頂いているのが現状なのであります。
それゆえに、あなたが最後の方に書かれた
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>人間、粗のままの「我情我欲の凡夫」で人を助けることも、我情我欲の謀では、また本当に人を導くことも出来るのでしょうか?
>人を助けることも、お詫びお礼を申すのも、目的・手段ではなく、心の改まりの結果として自ずとなされる。このように感じております。
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という内容が心を突かれるような思いがいたしました。
自らの生き方そのものが、お礼お詫びを申すこと、人を助けることにつながりる、そんな心に、生活にならせて頂きたいと思わせて頂きました。
最後に思うことを一つ、天地金乃神様は、今の金光教では優しい愛の神様のように伝えることもありますが、本来の厳しい神様の心も何百年たとうとも、かわらずにもっておられると私は思います。
日々の生活の中で、心して稽古させて頂き、心を磨かねばと思わせて頂くのであります。
これからも、あなたの信心をお聞かせ下さい。