〜此の御道では結局助かりませんでした〜(50歳・男性・職業:その他)
2011年10月19日(水)23時17分42秒
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タイトル:此の御道では結局助かりませんでした
投稿内容:
元信者です。
金光教の信仰を止めて七年に成ります。
入信の切掛けはサトウサンペイさんの『ドタンバの神頼み』を読んだ事で、平成二年六月に教会に初参拝しました。
然し、此の御道は入るのは容易いものの、歩くのは難しく、息が詰まりそうになりました。
湯川安太郎師の信話を読んでも得心する処か、癪に障り反発する事の方が多く、サンペイさんに騙されたかと思った事もあります。
拝詞にも御祭にも馴染めませんでした。
尤も、拝詞は文語で綴られており、口語訳聖書に比べれば遙かに増しだとは思いましたけどね。
信心に嫌気が差す度に参拝を止め、以前唱えていた念仏に戻りましたが、それでも教会に引寄せられ、様々な教会を転々としました。
でも、私の苦しみは消えませんでした。
フラフラするなと或る教会の先生に怒られて、この野郎と思った事も有ります。
最後は家の自室で「もう嫌だ!」と心の底から叫びました。
そうすると、不思議な事に水が砂に吸込まれる様に苦しみが消えました。
やっと神様が手を離してくれたのだなとホッとした事を覚えています。
結局私は此の御道では救われませんでした。
私を救って下さったのは如来様です。
私は現在日蓮宗の信徒です。
神様への最後の御願いです。
私の事を本当に可愛いと思うのなら、金光教の事は綺麗に忘れさせて下さい。
救いの代りに苦痛と挫折感しか得られなかったのですから。
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返信内容:
投稿を頂き有り難うございます。
私はあなたにどういう苦しみがあり、どのような信心をされていたのかは分かりませんので、この場で先に御神縁を頂かれた教会の先生方の御取次について、私から申すことは何もありません。
ただ、例に出されている方のご本は私も目にさせて頂いたこともありますので、少し申させて頂けば、サトウサンペイさんのご本は短く、端的、分かりやすく、説明をするために、現代の日常の問題などの要所、要所をとらえての中身でありますから、実際の教会での信心で同じようにいくかといえば、書かれてあるような内容の行間を埋める作業というか、日々のたゆまぬ葛藤なり、取り組み改まり等、次の行間にいくまでの心の展開が必要になりますので実際は難しいでしょう。
逆に言えば、湯川安太郎師の信話は、普通の教師であれば申すのでも躊躇するようなことまで、本音でズバズバ書かれてある内容でありますから、いわば信心の完成形に近いような内容でもあり、一足飛びにその心境が分かれば世話がないと思われますが、実際の生活の中でそれを実践することは、私達、教会で日々御用させて頂いていても、そうそう真似一つできることも難しいことなのです。
本来、この道の信心は、教祖様の信心の求め方、物事に当たって逃げずに体験し、苦労苦難の中からでも神様の働きを見つけていく作業、何を感じどう思ったのか、一段一段確かめるように自分自身で進んでいくしかないのです。
苦労話を聞かせてもらっても、苦労をしたことのない人には正直分からないのです。
その代わりに、怪我をして傷つき痛みを知れば、人の痛みも多少なりとも分かるようになるでしょう。
人が怪我をした病気をしたと聞けば、痛かろうなあ苦しかろうなあと感じ、助かりを祈らせて頂く。
借金や貧乏の相談なら、私も金銭の苦労は身にしみて分かっているので、金銭で助けることはできないが、普通の人であれば就職し仕事に真面目に励めれば何とかその日の生活はできるだろうから、その立ち行き成就は祈らせて頂くこともできる。
私は自分の体験した痛み苦しみを、無駄にしない生き方が信心の稽古であろうと思っております。
その基盤、自らがブレそうになることを支えてくれているのが、共にあって同じ体験をしてくれている神様であると信じているからこそ、助けて頂けば有難うございますと御礼も申し、失敗したり痛み苦しみを感じた時には、神様に痛い思いをさせて申し訳ないとお詫びを申す心にもなれる。
同じ方向に進んでもらうためには、お願いもさせて頂かねばならんと感じる。
私の場合は生活がそのまま信心に直結をしているために、そのように感じるのかも知れないが、神様を忘れない、離さない生き方が神信心であると感じております。
そのため私は神様と共にある生き方を無駄にしたくない、諦めが悪いというか、しつこいと思われても、神様にしがみついてでも、それで飢えて死ぬるようなことになっても、天地が有る限り生きても死んでも、神様と共に生かせて頂いていると、信じ切っている限りには、この道で私は救われているのです。
同じ事をせよとも思えとも私は申しません。
何をもって救われているのかというのは、各自の心のことでありますから、好き嫌いもあって当然、助かると信じる道を進ませて頂けば結構であります。
あなたは現在日蓮宗でお世話になり、如来様に助けて頂いていると感じているのでしょう。
それならば「金光教の事は綺麗に忘れさせて下さい。」と如来様に一心に願いおすがりしていくことが必要なのではないですか。
私は願い主の願いを取り次がせて頂くものとして、御取次の途中に私情を挟むつもりはありません。
あなたが金光教のことを綺麗に忘れられますよう、日蓮宗の助かり、如来様の助かりも天地金乃神様に御取次お願いさせて頂きます。
それと金光教は来る者拒ます、去る者追わず、氏子がおかげを受けさえしたらそれで結構な道であります。
神様はおかげの押し売りもしませんので、叱られるようなことをして逃げ回っているのでなければ、勝手にせよと見ているだけの神様でもあります。
「一心に願、おかげは和賀心にあり」と申されているように、一心になれば不思議でも何でもなくおかげを蒙ることはできるものであります。
拝詞や祭典などでおかげが蒙れるわけではないのです。
最後の「もう嫌だ!」と叫んだ一心の願いが御祈念であり、それを神様が聞き届けて下さり、あなたはおかげを蒙られたのでありましょう。
神様の綱を放している限り、神様はもう見ているだけであります。
これからは、あなたの生き方、信心で助かるようにお過ごし下さい。
有難うございました。
(教会長)
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