皆様いかがお過ごしですか。
10月は御本部におきまして生神金光大神大祭が仕えられ、その御比礼を頂き、各連合会の各教会にても生神金光大神大祭が仕えられるのであります。
教会にて御用をさせて頂く取り組み方ということも色々あります。
祈り願いを持って参ることも一つでありましょうし、掃除であっても、全部をする必要はないのであります。
ガラス戸の桟の一つでも有り難くお礼を申し拭かせて頂く。
願いを持って、させて頂くという心であればおかげになりますが、自分のこととして取り組まず、教会のためにしてやったとか、先生が大変やろうから手伝うてやるという気持ちなら、おかげにはなりません。
そういう気持ちなら、後でしんどかったり疲れたとかだけで終わってしまい、掃除としてだけで終わってしまいます。
修行でも何でもそうだと思うのでありますが、今、目に見えてさせて頂いていることだけが目的とは限りません。
そのことを通じて、本当の自分と向き合うことが大切なのだと思うのです。
掃除していて、しんどいなもう逃げて止めてしまおうかという気持ちが出てきやすい人は、実際の問題難儀にぶつかった時にも、そのような逃げの姿勢になってしまいます。
逃げたい気持ちの中でも、願わせてさせて頂いているのだから、せめてここだけでも私に任せられたところじゃと思うて努力して取り組むことが出来るようになれば、実際の問題も取り組む姿勢に変わってきやすいものです。
言わば難儀の取り組み方を心身に覚え込ますための練習のようなものでもあると思うのです。
だからこそ言われなければしないとか、言われたからするという考え方ではおかげにはならないのです。
掃除だけでなく御用はいくらでもあります。 信奉者皆の教会であり、まず教会を見て気づくことが大切であります。
気づいたらお願いさせて頂き行動を起こす。
出来るところから出来ることをさせて頂けば御用になります。
そのことが出来た時、気づかせて頂いた時に「出来させて頂けました」「有り難うございました」と御礼を申せて喜べたら、そのさせて頂いたことが「生きた」ということになるのだと思います。
今、求めさせて頂いている「喜び生きる信心」とはこういうことではないかと思います。