私達は、普段誰でも、人のことは良いことも悪いこともよく見えるものであります。
けれども、あまり人が良いことをした時に話を他の人にまで拡げていくことはしないようで、悪いこと、ダメな所などは、誇張してまで人に伝えようと話しかけていく人があります。
人間誰しもそうでありますが、自分の悪口を言われて好きな人はありません。
逆に、自分は良いことをしたつもりがなくても、それを誰かが見てくれ後になってでも誉めてくれる。そうしたら嬉しい気持ちが致します。
信心と言うことを考えてみた時にはどうでしょうか。
何か悪いことの一つでも起こってきた時に、その中に、おかげを頂いていることがあっても、なかなかその事を見つめようとはしません。
逆に悪いことダメな所を探してまで神様に不足を述べようとする時があります。
そして信心の事を、私はこんなに信心しておるのにと何でこんな事が起こるのかと思ってしまっている。
けれども、よく考えてみて下さい。私達は何で信心のけいこをしておるのかと言うことを。
それは、自分の心が助かるようにおかげを受けたいからでありましょう。けれども実際は違ってやしませんか?
信心のけいこと言いながらも、その逆をしておることがある。
世の中、良いことばかりではない。悪いこともある。それは当然のことで天地の道理でもあると思うのです。
それを悪いことが起こらないように願う、また悪いことが起こったらおかげではないと言うことは間違うておると思うのです。
神様から見れば、それは天地の道理の中、天地の間のことであって、おかげの中で起こってきたことなのです。
それでは信心とはどうすることなのか。それは、悪いことの中にもおかげを見つけることだと思うのです。
これは思い替えとかそう言うことではなく、実際にその中にあるおかげを見つめていく。普段の生活で自分たちが何気なく目を逸らしている良い所、実際すべてが悪いことと言うことはないものです。
四代金光様が教えておられた、お礼を先に申す順序とは、そう言うことではないでしょうか。お願いをしてはいけないわけではない。
み教えにも「手にも表と裏があるように、表の良いことばかりがあるのではない、裏の悪いことが起こった時には、早く表になるように願え。」とあるのです。
そうすると、表になるにはどうするか、それは、自分の悪い所をしっかり見つめお詫びを申し改まっていく。これしかないのです。
すなわち、お礼もお詫びもお願いも、どれも抜けてはならないものであり、大切なものだと思うのです。
確かに、この事は難しいことでもありますので、すぐに出来ることはないと思います。だからこそ、普段から信心のけいこをしなければいけないと思うのです。
けいことはすなわち、無意識のうちにでもそれが出来るようになることだと思うのです。
例えば書道であると字を習うわけでありますから、お手本をみてその字を見ながら、自分の癖を改め、いつ書いてもお手本を見なくても、その字を書けるようになる。そうして、その書き方の基本を持って、応用して他の字も書けるようにしていく。それがけいこだと思うのです。
信心で言えば、教祖生神金光大神様の求められた生き方のお手本、み教えをみて、自分の悪い生き方の癖を改めていく。そしてどんなことが起こってきても神様を離さず信じて神心を現せるようになる。そしてその生き方を土台にして、人の難儀に出会った時にその人を助けていく。これが信心のけいこだと思うのです。
また、信心の継承を願うと言うことも重要なことですが、皆信心の継承を願うのに大人になった子供のことを願うのですが、それでは遅いように感じるのです。
信心とはご承知のように生き方であり考え方の元になるものであります。今時の若い人でありますと、習い事と称して、胎教と言ってお腹の中にいる時から色々と教えておりますが、信心こそお腹におる時から必要ではないかと思うのです。
願い祈りの中で、生まれてくる。今の子供達の中には、生きて生まれてくることに疲れを感じ、親からの愛情が判らない子供もあったりします。
一切の見栄、欲、損得抜きに純粋に愛情を注ぐ、この事が抜けてきておるからではないでしょうか。
それと親の信心についての考え方を、子供はよく見ている物です。親が教会に行くのをおっくうに思って、お参りが少なければ、当然子供は、見るからに疲れそうなイヤな所には参らなくなります。
逆に、信心と言って、家族をおいて教会参拝に勤しんでいると、なんぼ子供のことを願いに教会に行っていてもその事は伝わりません。
それではどうするのか、最初は多少強引でも、教会で騒いでもいいじゃないですか。この子に信心を伝えたいとの願いを持って修行じゃと思って一緒に参ることです。その中で、親がどんなことを教会で祈っているのか、祈りの中身が最初は判らなくても、子供もいずれ成長し大人になります。常に祈りに触れていく、願いに触れていくことで、伝わることがあると思うのです。
また誰しも、行ったこともなく聞かされているだけで、教会に参れと言うのは、不安もあって参れるものではありません。
逆に、参りやすい状態、すなわち、日課のようにお参りが身に付いておりますと、普段お取次を願わなくても、何かの時にはと期待することも出来るのです。
それに、子供は大人が話していることを意外と聞いていないようで覚えています。それが何かの時に気付かされることもないとは言い切れません。
何事も、信心も見守る、見つめることが大切であります。その中で信心に導いていくけいこが必要だと思うのです。
物心着いた子供になってから参拝させるのには多少理由も入ります。今日は何の日だから、今日は変わりに参ってくれんかでも、何もなければ、参る気にもなりません。
難儀や問題が起これば参るだろうと思っても、最初に信心の元がありませんと、その事はただの難儀としか受け取れず、逆に参る気すら起こらなくなります。
最初に信心の元を作らせて頂く、それにはやはり、ただ参るだけでなく、話を聞かせてもらうことも必要です。
共々に信心の稽古をさせて頂きましょう。
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