最近私が思う事に、生きていくことは、なかなかに難しいという事です。
その中で、少しでも生きられる方法は、目標を持つことではないかと考えたのですが、どうでしょうか?
目標というと、何か大変なことのように思われるかも知れませんが、普段の生活の中で、あした朝起きようと思うことも目標で、起きたら、食事をしようでも、風呂に入ろうでも目標なんです。
普通に生活をさせて頂いていると、何のことはないことでありますが、一旦それが出来にくくなると、次に続けることは難しいものです。
たとえば、朝早起きをしようと夜には思っていても、次の日に用事があれば、起きられても、何もない中で、毎日、起き続けるのは大変なものです。
つい眠たければ、「まあいいか。明日からにしよう」という思いが頭を過ぎってしまうのです。体が疲れてるとか、前の日にお酒を飲み過ぎただとか、理由はどうであれ、最初に、毎日早起きをすると目標立てた事から考えると、それは単なる言い訳に過ぎないわけです。
そうなると、段々それが重みになって、よけいに自分の心を苦しめてしまう結果になってしまう。
ついには何で自分はこんな事をやっているんだろうという心になって、最後には「止めた、止めた、ばからしい、自分一人早起きしたところで、世の中が変わるわけでもないのに」という心が出来てくるんです。
そんな事の繰り返しになるような中で、なぜ目標を持つ事を進めるのか、それは生きる準備をすることが目標だと思うからです。
今の世の中、意外に死ぬ準備をしてると思える人が多くあります。また、死というものを求めている人もあります。
その時に、考えてもらいたい事は、死んだところで、苦しみは何も変わらないという事です。
皆さんはどう考えるのか判りませんが、死んだからといって、苦しみ事が無くなるのかと思えば、そうではなく、今度は終わらない永遠の中での苦しみというものが続いていくんです。
別の言い方をすれば、死んでいくときに、どこか別の場所に行くのではなく、死んだからというても、別にどこに行くわけでなく、そこにいるんです。
人間、心にいかに苦しい事があっても、生きている中、わが心の持ちよう一つで、救い助かるという事もあるんです。
一長一短には解決しない問題でも、一つひとつ、小さな目標を立て、今が今、生きる目標を積み重ねていく事で、大切な事に気がつく事もあるんです。
全部が全部、成功しなくても良いではないですか。その中で、何を掴むのか、何を感じたのか、その事を大切にしていき、その中で、悔いを残さずに前向きに死んでいく。
そうすれば、後に残った人の心にも、御霊が生き続ける事になるのではないでしょうか。
今が今、生きるための準備を目標にさせてもらいたいものです。
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