夢を追う 果てしのなき 旅人よ 目の輝きを 失うなかれ
誰がため させて頂く御用かや 過つなかれ 和賀心をただ一筋に
夢を追いかけている人は目の輝きが違う。
どんなことでも夢や目標が定まっている人はある意味幸せである。
少々の苦難があっても、目標が狂わない限り、あきらめない限りは努力することも前に進めていくということもできる。
周りの人は、ただ振り回されることもあるため大変なこともあるが本人が目を輝かせ頑張っているのを見ていると応援したくなるのが本音ではないであろうか。
また、そういう人の話を聞くのも、意外に楽しい。
人それぞれ、色々なこだわりがあったり、楽に手に入れようとは、していない。
山登りでも海に潜るのでも、探検するのでも旅行でも、物を集めるコレクターであっても、あるいは職人のように作り出すことに命をこめている人でも。
何のためにするのかは、ここでは関係ない。
誰のためにするのかが重要だと思う。
多くの人は、自分自身のために行っているのだと思うが、物を作るあるいは人に紹介することに夢がある人は、それを使ってくれる、人のためかもしれない。
お金やただの見栄などは関係なくなるのだと思う。
金光教の信心で見ればどうだろうか、誰のために信心しているのか自分のためという人もあるし、人を助けたいという思いからの人ももちろんあるだろう。
宗教であるから、神様のため、世に現すことを目的にしている人もあるかもしれない。
そこでのこだわりとしては、どういう助け方があるのか。
話を聞くという助け方、物品を与える助け方、物品には限界がある。
またそれでは助からない人もある。
話を聞き心を助け、その人の生きる力を取り戻させることが良い。
元気にさえなれば物品は手に入れることができるかも分からない。
金光教の教祖は人を助けたいという夢を追い求めたのかも知れない。
だからこそお金や名誉は求めていない。
純粋に「人が助かりさえすればそれで結構である」との答えがある。
そう考えると、教祖と同じことは実際には難しいと思う。
けれども同じ目標や夢を求めて、いくことは出来ると思う。
山登りの人に何で山に登るのか尋ねたら、
「そこに山があるから」
と言ったとか、同じように教祖に何で人を助けたいのか尋ねたら、
「そこに難儀な人がいるから」
と答えるかも分からない。
理屈や常識、それらを超えたところに、夢や宗教は存在していると私は思うのだがどうであろうか。
現代の世の中で、そこまでの夢を追い求められれば、幸せではないだろうか。
和賀心から自分の夢を見つけてもらいたいものである。