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願う氏子〜(編集長)

 皆様いかがお過ごしでしょうか。

 平成19年もいろいろある中に、教会の御用にもおかげを頂き無事に迎えさせて頂きました。

 新年を迎える、ここから新たに信心を進めさせて頂くわけでありますが、金光教の信心の根幹は、どこに置くべきなのでしょうか。

 正直言えば、こだわりなく、どこでも良いのだと思うのです。

 貧富の違いがあっても、仕事の内容が人に嫌がられることであっても、ただ、その生活の中で人が助かることを願って、地道に取り組んでいく、その働きの中には、信心につながる大切なことを知り得ることがあるのではないでしょうか。

 神様は「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」と伝えられました。

 最近では、おかげが頂けないと申す方もありますが、真に願う氏子になっているのでありましょうか。

 我関せずと願っておいて下さいというのは当然、願う氏子ではありません。

 願わずにはおられない心が大切。

 参らずにはおられない行動力が大切。

 押しのけられるような状況にあっても、神様に、それでもとしがみつくような思いで、どうか助けて下されいと願い続けるのが願う氏子であります。

 参ってくるな、願うなと申されて、ハイそうですかと、一見素直に見えるのでありますが、分かった振りで引き下がるようではおかげは頂けません。

 素直も必要でありますが人が良いのと、神信心でおかげを頂くのは別物であります。

 それでもと参る中に神様は見て下されて、理解を申して下されるのであります。

 神様に向かう心が大切であります。

 金光教が生かされて生きると申す中身はなんであるのか、どんな状況の中であっても神様はその御働きとして生かして下されています。

 しかし、生かすことだけが神様の目的ではありません。

 その命を持って生きてくれとの願いをかけて下されているのだと感じるのです。

 信心は出来上がってからするものではありません。

 できないからこそ求めていく信心の稽古があり、求めていけば神様は事柄を持って教えて下されます。

 神様に命のおかげを頂き、神様の願いを受けて、神様に心を向けて生きることを願う、その事柄の中に助かりの道が生まれるのだと感じます。

 おかげを蒙らせて頂きましょう。

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