(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る
(*^ー゚) 投稿の雑記帳へ行く
(*^ー゚) 投稿いただいたお話一覧へ戻る

〜おかげの見えるところ〜(31歳・男性・金光教教師)

「おかげ」というものを考えた時に思う事があります。

それは、氷山の一角ということです。おかげも同じように、人によって見えるものは小さい時があります。

だからといって、これだけのおかげしかないとは言えないと思うのです。その小さく見えるおかげはどこにつながっているのか。

それはおかげの出てくる元である天地金乃神様につながっております。

また、見方が悪いから見えない事もあります。たとえて言えば、紙を見た時、厚さの面を見て言えば、1ミリにも足らない一つの線でしか見えません。

けれども、それを広い面から見た時には、どれだけ大きいものであるのか想像できないこともあります。

大げさに言えば1キロメートル超すほど長いロール紙であったとしても、まっすぐ延ばして厚みの面から見れば線でしかないのです。

その線だけを見て、小さな紙と思って使い物にならないと決めつけたのでは、紙が生きて使えません。

物の本質を知るという事、物を生かすという事には、しっかりと見る事が大切であります。

その為には、自分の立ち位置、見るところはここと決めてしまわずに、自分から動いてよく見える位置に移動する努力が必要だと思うのです。

信心とはそういうものではないでありましょうか。

つい人間は、そういった努力をしないまま、自分が見ているのが正しいところだと思いがちであります。

けれども、神様が見せて下さろうとしているのは、そこではないのかも知れないのです。

神様が見ているところには、壮大で綺麗な絵が描かれているかも知れず、人間はその絵を横から見て、額しか見えないと不足を言っている事も多いように思います。

その為に、神様は「どこを見ておるのか、ここから見てみい、すばらしいであろうが」と手を差し伸べて下されているのではないでしょうか。

神様が見ている絵は人間からすれば壮大すぎてよく見えないのかも知れません。

それを見るためには、こつこつと努力して歩き続けて、時に振り返り、間違いないかを確かめて見えるところまで進み続けなければならないのでしょう。

それが信心させて頂く者の人生ではないでありましょうか。

人間がおかげと思っている事も、それはまだ、おかげにつながっている紐かも知れないのです。しっかりとたぐり寄せ、おかげにつなげて頂きたいと思います。


(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る
(*^ー゚) 投稿の雑記帳へ行く
(*^ー゚) 投稿いただいたお話一覧へ戻る

Copyright(C)2001-2023 Konkokyo Church of TosaTakaoka. All rights reserved.