私が思う御道立てを祈ると申しますのは、信心の継承であり、それは難儀な氏子のお導きを願い、『お手引き』をさせて頂くことであろうかと思います。
願いをたてる相手は、家族でもあり、身内親類、友人知人、ご近所の方など様々であると思うのであります。
今と一昔前とでは何が変わったのでありましょうか。
一つ言えることは、互いに思いを言葉で通じ合うことが少なくなり、人間同士が閉鎖的になってしまったということでありましょう。
それと共に宗教というものの見方や考え方の価値観が変わり、純粋な意味での素直な受け取り方をされないことにも原因はあるのでしょうが、信心させて頂き、伝える側にも変化が生まれてきているようにも思うのです。
自分の受けたおかげの話しが、身内の恥をさらす、自分の恥をさらすという思いから、恥ずかしい言いたくないという感情に変わったことが大きいように思います。
さらに金光教の信心は現世利益のおかげだけを求める信心ではもちろんありません。
そういったためにおかげの話しをしなくなった。
だからといって今は皆おかげを受けていないのでしょうか?
今も昔も変わりなく神様からおかげを受けていることもまた事実であると思うのです。
宗教では人間はみな平等とよく言われますが、神様から授けられているおかげは平等だという意味であって、どれだけそのおかげを受けられるのか、そのおかげをどう受けるか、どう生かすかによって平等ではなく変わってくると思うのです。
おかげを受けた人のマネをしても、受け方、生かし方、心の持ちようで万人が同じおかげを受けるということはありません。
おかげ話とは、それをマネるために伝えるのではありません。
難儀や問題も人それぞれ、みな違うのでありますから、マネをしても意味がないのです。
けれども、おかげを受けた信心の話は伝えていかなければならないと思うのです。
それは、その話によって、思い方、祈り方、取り組み方などの助かりの道への言葉が含まれていると思うからであります。
御教えや直信、先覚の話も、今の時代にそのまま当てはまるものではありません。
しかしその語られる内容の中に、今の時代、また先の世にまでも生かすことの出来る、心のありよう、祈り方、実践に移していく時の心構えなど、参考になることは多くあると思うのです。
金光教の信心の場合は、教典に書かれていることがすべてではなく、それと同じように今の世にあってそれぞれが体験し、感じたこと、練り出したもの、信心として取り組んだこと、すべてが生きた教えであると思うのです。
実際にその生きた話しを伝える中に、神様はお働き下されると思うのであります。
けれども信心させて頂く者として、みな御道立てを祈りながらも、伝えるということをためらっている。
他人に信心を伝える時、本当にうれしくありがたく、話さずにおれないという心でなければ、おかげは生きてもきませんし伝わるということもないでありましょう。
その中で「信心が伝わらない」「おかげがない」というのは、信心から言えば当たり前だと思うのです。
だからといって、勢いをつけて、熱弁を振るったところで、最初から聞いてくれないと思いますが当然です。
まず最初には、徹底的に先入観を持たずに素直な気持ちで聞かせて頂くことが必要なのです。
自分自身で考えてみて下さい、自分の話を聞いてくれない人の話は誰も聞きたくないものです。
「本当にこの人は私の話を聞いてくれる」「信じてくれる」「わかってくれる」という人の話は素直に聞いてくれます。
その中で忘れてはならない、間違ってはならないことは「天地の親神様、どうぞこの難儀な氏子が助かりますように、私を御用にお使い下さいませ。」という信心の心での祈りだと思うのです。
「私が助ける」「導いてやった」そういう思いを心に持ってはならないのです。
「私が話しを聞いてやったのに一つも私の話を聞いてくれん。だから助からないのだ。」といって責める方がありますが「聞いてやった」という気持ちであったからであり「私の話」を聞けという態度であるから聞いてくれないのです。
相手に話しを伝える時には、相手の心の中にある神心を祈る心が大切なのです。
例えば問題を抱えた人と話す中にも、
「あなたは(そういう)問題を抱えていたのですね。大変だったことだと思います。」
「あなたの本当の辛さ苦しさはわからないかも知れないが、あなたの気持ちになって私はあなたの話を(こう)聞かせて頂いた。」
「その中で私が今あなたの立場であるならば、(こういう)思いをしたと思うんです。」
「私がそう思わせて頂いたのは、(こういう)問題が起こってきた時に、私は信心にご縁を頂いたことを思いだすんです。」
「最初は私も何もわからずに困ったことがあったのですが、金光教という宗教にご縁を頂いて、そこで先生から、(こういう)話を聞かせて頂いたんです。」
「あなたであったら、今の話しをどう思うのかなあ。」
「私はね、そうする中に問題はまだ解決したわけではないけれども、私は(こういう)思いに気づかせられたんですよ。」
「そしてね、その気づかせられたことの中から、何か行動をさせて頂こうと思った時に、難しいことは出来ないけれども、今できることから、(こういう)取り組みをさせて頂いていたんです。」
「そうして、思いを行動に移す中に、その中で、また新たなことに気づかせて頂いて、信心させて頂いていてよかったと心から思う中に、おかげを頂いたと感じたんだよ。」
「あなたの場合は多少問題が違うかも知れないけれども、信心させて頂く中に、きっと気づかせられることがあると思う。」
「信心というと心配するかも知れないけれども金光教の教会ではね、あなたの思いを素直に言わせていただけば、神様に取り次いで下さる先生が一緒に助かる道を祈って下さり、わからないところも尋ねたら教えて下さるから安心ですよ。」
「それにね、金光教では神様からもあなたの助かりを祈って下さっているの。」
「さらにな、あなたの心の中にもあなたを助けたいと願ってくれてる神様の心があるんよ。」
「あなたが願うのと同じように神様からも教会の先生からも祈られていることに気づかせて頂いた時に、おかげが頂けるんです。」
「私もあなたのこと助かるように祈らせて頂くからね。一緒に祈らせて頂こう。大丈夫、きっとおかげ頂けるから。」
「みな自分一人で生きているのではないんよ。私たちは生かされて生きているんです。一緒になって共に助かる道を求めて信心をさせて頂いてみませんか?」
そういった一歩踏み込んだ自ら感じた信心を伝えることが、他人の心を動かすのだと思うのです。
本当に相手の立場を思う中から、神様に祈らせて頂き、相手の助かる参考になるおかげを頂いた話しをさせて頂く。
相手の助かるおかげを頂いた話しには、直接は関係ない話しになるかもしれない場合ももちろんあります。
しかし、ただ辛かったろう苦しかったろうという互いに傷をなめ合うような同情だけでは助かりにくいものです。
問題の中で、どう取り組ませて頂いたのかを、祈りを伝えることが大切だと思うのです。
そのような深刻な問題だけが信心の切っ掛けではありません。
普段であれば日常生活の中にも、そういった信心の心で相手を思いやる生き方をする中に、神様がお働き下されると思います。
最近では人と人の関係が希薄になり、家族であっても関わりを求めない傾向がありますが、一人ひとりが互いに天地の親神様の氏子という思いを持って、強制することなく相手の心から神心を引き出すまで、あきらめずに取り組んでいくことが大切だと思うのです。
何もしなければ、何も始まりません。
一歩を踏み出すことによって、はじめて先に進むことが出来るのであります。
共々に御道立てを祈らせて頂き、信心を進めさせて頂きましょう。