皆様いかがお過ごしですか。
最近は世界中で戦争や台風や地震などで多くの方が難儀をしており、見させて頂く中にも祈らずにはおれなく感ずるのでありますが、信心させて頂くものとしてどうとらえるのかが問題になるように思います。
神様は人間を救い助けてやろうと、お働き下されているのでありますが、その中にあって、あまりに人間がそのことに気づかず自分勝手な生き方を続けていることに、時に天地の神が怒りに身を震わせているようにも感ずることがあるのであります。
親と子の立場の違いもありますが、親から見た見方と、子から見た見方は同じ物を見ても違うようなものです。
親の立場としては、子供のことを考え先の先まで見ながら子供に伝えることがあるのですが、子供にとっては目先の今のことだけを問題にし、自分勝手に自分さえよければ他の人のことは知らないというような見方の時が多くあるものです。
親は子供が少々、失敗しても包み込んだり見逃してくれることがあるのですが、子供の方は親に成功だけを求めて、一つ失敗しただけでもすべてがダメなように言ってしまう。
誰であっても相手を思いやる心がなければ、相手を理解することも出来ません。
病気であったり調子が悪かったり、生きている限りには、予定しているとおりに物事が運ばないこともある。
良かれと思ってしたことでも、その人が求めていないことなら余計なことをしてと言われることもある。
しかし、結果としてそのことがあったおかげで失敗せずにすみ成功するということもある。
互いに相手の行動や言葉にも生かすことが必要だと思うのです。
先のようなことで人のしてくれたことを余計なことと切り捨てていたならば失敗していたかも知れません。
実際、何が良くて何が悪いかなど、終わってしまいすんでからでないと判らないことが多いものです。
人が善意でしてくれたことならば、そこに一工夫してみて生かす働きにしていけば、周りのしてくれた人も喜び、後になって自分自身の後悔にもつながらないようにも思うのです。
金光教では「神様に無駄事はない」と言われます。
良いことでも悪いことでも、起こってきたことを自らの生き方で、どう受け止めるのか。
悪いことでもすべてを悪いこととするのではなく、その中にある良いものを一つずつでも見つけていく。
その良いところに目をむけ良いことにしていけば、無駄事にならないという思いなのではないかと思うのであります。
神様は人間の親として、子供が道を外れそうな時には叱りもし、引き戻しもされるのだと思います。
つまり人間がうるさいと突っぱねるのか、これを機会に出来るところはさせて頂こうかと受け入れて生かすかによって後の生き方が変わってくるのだと思います。
神様は親として人間が生かしてくれることを信じて、色々な事柄を差し向けてくれているように感じます。
神様の見方と人間の見方が同じになったときに、あいよかけよの働きが生まれ、おかげが受けられるのだと思うのであります。