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〜倫理・道徳と信心の差異について<掲示板97>〜(編集長から返信)

日々お世話になっております。
まず、返信が遅れましたことをお詫び申し上げます。
ただ現在もパソコンが不安定なため今後は即答できないかもわかりません。なにとぞご了承下さい。

さて、「倫理・道徳と信心の差異について」でありますが、
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そして、今私が求めている信心の姿を少し話させて頂きます。
構図として、
1. 「天地書附」 生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい とあります。
2. 金光教にご縁を頂き、何かの問題(病気、人間関係、金銭問題など無限にあります)の助かりを神様に一心にお願いします。
3. 一心とは?  難しい問題と思います。ただ思わせて頂くのは、教祖様が42歳大病の際の、「凡夫で相わからず方角見てすんだとは私は思いません」のご姿勢です。我情我欲の私です。ただ頭を下げるしか出来ない私です。
4. 私の心が定まった時、神様の真正面に立てると思います。これが「心の改まり」かも知れません。広い世界に立たせて頂く。
5. 多分、この段階では自分が願っていた事柄は重要性が無くなってしまっていると思います。「おかげは和賀心にあり」
6. 自分は一心に神様に向っている積もりでも、神様の真正面にいる自分はふと気付くと180度向きを変え、神様と同じ方向に眼差しを向けている。自分としての信心が結果として人様のお役に立つようになる。
7. 「和賀心」は神様より差し向けられるものでは
以上のような思いがあります。
最近、思わせて頂くのは、「倫理・道徳と信心の差異」についてです。
お世話になります。
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と書き込みをして頂きました。
せっかくでありますから、そのことについても、私の感じたことを述べさせて頂きます。

「天地書附」を元にしての取り組みを、ありがたく感じさせて頂けます。

最初のご縁を頂く時には、人それぞれ自らの問題に直面して、御神縁にてお引き寄せを頂くのだと思います。
その中身として、神様の願い「御神願」というものがある。
御教えの中に、

「『氏子がおかげを受けてくれなくては、神様も此方もうれしくはない。氏子がおかげを受けずに難渋しているようでは、神の役目が立たない。氏子が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない』と仰せられた。」

とありますが「氏子がおかげを受けて立ち行く」ことを願って下されてあるのだと思うのです。
そのために、難儀な氏子がおれば、それぞれに、人を使いとしてお引き寄せ下さる。
その「御神縁」だと思うのです。

「一心に願え」とのこと。
私は、ここでの願いの内容は、個人的に思わせて頂くままの助かりの願いでよいのだと思うのです。
すなわち、腹が立ったら「腹が立っております」、辛く苦しければ「辛く苦しいです」と素直に願う。
願う中に「信心する者がこういう思いでいてはいけない、こう思わなければああ思わなければ。」という二つ心にしないことだと思うのです。

つまり、「こう思わなければああ思わなければ」という願いには、神様の働き、おかげの現われを自分の思いの中に限って考えてしまうことになる。
神様はどんなおかげを現わして下さるのか、まだわからないのですから。

素直に心の思うまま願うことで「スッキリする」というか心が整理されると言うこともまたあると思うのです。

次につながる「おかげは和賀心にあり」ということ。
不思議なもので、人間、自分の思いをどこまでも他に対して願い通す中に、自然と「これでいいのだろうか?どうあるべきなのか?」という自らへの問いかけが始まるのです。

そこに至った時に、ふと周りを見回した時にでも「気がつかされる」ことがある。
「気づき」というのですが、いわば「悟り」だと思うのです。

御教えにも、

「金光大神の教えることについては、聞けよ悟れよが第一である。悟りを開かなければならない。」

とあります。
この時に、悟る内容は「自分の新たな願い」であり、その時に神様の願われている御神願でもあると思うのです。
この願いに気づいたことが「おかげ」であると思うのです。
たぶん、この願い思いに至った時の気持ち、心は、難儀に中にあって問題は変わっていなくても、和らいだ感動と喜びがわき上がってくると思うのです。

神様に包まれている私なのだとわからせて頂ける。

問題の解決の糸口は、それぞれに皆、最初からわかっているようにも思うのです。
ただ信心させて頂いていないと受け入れたくない「人間心」が働いてしまう。

けれども「おかげは和賀心にあり」の悟りが開けると、素直に問題解決の方法を受け入れられる。
受け入れて実行にうつさせて頂くと問題は解決するのです。

そうすると、後は、神様をどこまでも信じて、悟らせて頂いた新たな願いの中身を日々頼んでいく。
それは「誓い」でもあり、忘れないために必要なことではないかと思うのです。
それが「今月今日でたのめい」の中身ではなかろうか。

私は「天地書附」をこのように受け取らせて頂いて、信心させて頂いております。

さて「倫理・道徳と信心の差異について」でありますが、

確かに、似ているものではありますね。
「倫理・道徳」は人間が生活をしていくために必要なものであります。
こう言う時にはこうさせてもらわなければならない。こう考えなければ人には受け入れられないなど、けれども、その時その時の社会情勢や世代によっても変わってくることだと思うのです。

昔はこうさせてもらうのが当たり前だったと言って、現代にそのまましたのでは、あわないことも多いと思います。
すなわち「人の道」という考えが「倫理・道徳」だと思うのです。

御教えに、

「事のわからぬ無茶な者でも、信心しておると、打って変わってようなってくるものじゃ。それというのは、信心すればものの道理を聞かされるから、ものの道理をわきまえてくるからぞ。神様の道に入れば、ひとりでに人の道をふむようになるが、人の道をわきまえておると言う者の中には、神様の道をわきまえぬ者がある。」

とあるように、この社会で生活する中で、今の世の中、正しいと思われる「倫理・道徳」を守って生活しているという中には「神様の道」いわゆる「信心」をわきまえないことがある。

そう言われているのですね。
つまり、ある程度「倫理・道徳」には、人間が生きる上に楽で都合のよい内容も含まれていると思うのです。

それでは「信心」という「神様の道」はどうなのでありましょうか?
ここではいわゆる「天地の道理」ということが問題であると思うのです。

「天地の道理」は本来、厳しい内容のものもあります。

御教えに、

「教祖は、ある時のご裁伝に、神の上に天理を教えられたり。『神は親子であるから氏子のことは許してやるが、天理(道理とも教えらる)が許さぬ時は、どうする』と教えらる。また、ある時は、『天理が許さぬ時は、神もしかたがないぞ』と教えたまいしことあり。」

とあるように、神様の上に「天地の道理」がある。
つまり、神様が生きて働かれるための、神様が守っておられるものが「天地の道理」だと思うのです。

神様は願い来る人を「助けてやりたい」と思われ願って下さるのだけれども、その「天地の道理」から外れた願いであれば、聞くわけにはいかないものがあると思うのです。

すなわち、人間にとって都合のよい願いでも、神様はまた受け取り方が違う。
人間にとって都合がよいというのは、言い換えれば、時の権力者が、他の人を統制するのに都合のよい内容であるとも言えるのですが、神様にしてみれば違いますよね。

神様が見られた時には人間は地位も名誉も関係なく、人間という一区切りの種族で考えられる。
動物は動物で一区切りの種族で考えられる。
わかりやすく考えれば、人間の「倫理・道徳」と動物の「倫理・道徳」を考えればわかりやすいのです。

動物や植物は基本的に「弱肉強食」の関係にある。
一つの輪の中につながりあうというシンプルですが、生まれながらに持っている本能がある。
動物同士はそれを受け入れて生きているのです。

人間もある意味その営みに含まれているのですが、人間が、そのままに、その生き方をすれば問題になりますよね。
そのために「弱い者を助けなさい」「人に親切をしなさい」という考え方が生まれる。

「他の人を助けなさい」と教えるのだけれども、現代ではだいぶ「自己中心」で人のことも考えない人もあるのですが、人間の「倫理・道徳」では「自己中心」はどちらかといえば固く戒められる。
けれども、天地や自然からの観点から見れば、人間だけの「自己中心」とも言えるわけですが。

その中では、守れなかった人は「罪」をおうことになり「罰」を受ける。
「罪」と「罰」の考えもあると思うのですが、罰を受けた人は「倫理・道徳」だけでは助かりがたくなる。

そういう内容だけだと助からない人も出来てきますよね。

「信心」ではそこが、違うと思うのです。
しかし「信心」でも、その宗祖教祖の「倫理・道徳」観も反映されているために「自分のことだけを願う」のは戒められる。
宗教によっては「倫理・道徳」と同じように罰を受けた人は助からないという宗教もあるのでしょうが。

「金光教の信心」は少し違うんですね。
他の人のことも願わせて頂きますが、自分のことを願うことも許されている。
つまり、自分自身も一人の「人」としての助かりを求めることも出来る。

さらに悪いことをする中にも、「お叱り」は受けるけれども、改まり、道を戻れば許して頂ける。
そういう「信心」だと思うのです。

まあ根本的に言えば、「倫理・道徳」は他の人と共存するための、人間同士の決めごとであり、ある程度、難しいことなどには強引にフタをしてしまうものだと思うのです。

「信心」が求める「天地の道理」は、それぞれに強引にフタをするのではなく、それぞれの役割を生かしあうことによって、祈り合い譲り合って、それぞれが助かるようにつながっていく。

それぞれ共存しあうという関係から見れば同じようなものではありますが、「倫理・道徳」はほぼ人間同士に限られた観がある。
人間以外のものや罰を受けた人間は、多少、見ないようにフタをされているんだと思うのです。

逆に信心は、人間に限らず、天地のもの、すべてに目を向けていき、その中で、人間として他のものとの共存も求める。
それは、様々な人やものがあることを認め、無駄なものはなく、生かしあわねばならないという観点に立つ。
そのために、そこにはどうしても「許し合ったり」「譲り合ったり」という「祈り」というものが不可欠になるのですね。

だからこそ、誰もが閉じこめられたり除外されることなく、それぞれが、その役割として助かることが出来る。

そこが、「倫理・道徳と信心の差異」ではないかと思うのです。

多少、私の認識や思いこみがありますので、求められておるところと違うかもわかりませんが、今後ともよろしくお願い申し上げます。


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