どなた様にも、明けましておめでとうございます。
タイトルに使わせて頂いた「神合喜生(しんあいきせい)」という言葉は私の造語です。
金光教に関する言葉でもありませんので、他に問い合わせはしないで下さい。
昨年、金光教は教祖120年というお年柄であったわけですが、いわゆる節年という年には、多かれ少なかれ思いもかけない事が起こってくるものであります。
振り返る中に、私個人の所でも、他の人から見られれば些細な事かも知れませんが、本人にとっては大変な年であったように思うのです。
行事などに関しては、前々から話し合いで決まっていた事ですので、問題にはなりませんが、大切な物が壊れていくという事には正直困りました。
御用の上で使う物や個人的に使う物まで、話し合ったかのように次々壊れていくのです。
ただ、それでいて、おかげを頂いていないわけではない。
その物が、どうしても必要なときには壊れずに用事を果たしてくれたのです。
たとえば講演会でテープ起こしをしなければならないという役を頂いたために、ボイスレコーダーを購入して、そのテープ起こしも終わり、バックアップもとって、遊ばしておくのも何だから、大祭などの講話も録らせて頂こうと見てみた時にはすでに何もしていないにもかかわらず壊れているのです。
けれども保証期間という事もあり無料で修理を受ける事も出来、講話は直に真剣に話を聞かせて頂き、メモを取る事で私自身のおかげにもなりました。
また、ノートパソコンが壊れた時にも、大祭直前で、作らなければならない物もあり「困った」と思ったのですが、おかげで中古のノートパソコンを購入させていただくことも出来たのです。
また、それも不思議なもので、大祭までに作らなければならない物を、作り終えると、とたんに故障したのです。
大祭前に修理に出すという事になりましたが、御用の上では支障はありませんでした。
さらに修理中の間は、壊れていたノートパソコンを思いつきから修理する事が出来、ホームページやメールなども困ることなく作業をさせて頂きました。
ひと月ほど修理にかかり、思いのほか修理に手間取ると思っていましたが、結局は修理が出来ないほどの故障であり、保証期間のため新規交換というおかげを頂きました。
確かに物が壊れていく、一見すると難儀とも受け取れる事が、お繰り合わせや時節を頂く事で、困らずに新しくして頂いていたのです。
後になってみると「あれもおかげであった、これもおかげであった」と喜べる結果を頂いていた。
実際その壊れている間、私自身は神様の思し召しがわからずに慌てたり、騒ぎ回る事もしていたのですが、それは神様を信じ切れていなかった、神様の心を想わせて頂くことが足りなかったと、深く反省をさせらることになったのです。
そんなときに、新年に向けて願い祈りを考えようとした時に思わされた言葉が『神合喜生(しんあいきせい)』でありました。
簡単に申せば『神様の祈りを感じ、和賀心の祈りを合わせ、喜び生きる信心』とでも申すのでしょうか。
すぐに出てきた言葉ではないのですが、最初に神前にて御祈念していて思わされたのは「想いが足りない」その一言でありました。
「想いが足りない」その言葉の意味も最初はわかりませんでした。
けれどもよくよく考えてみると、自分勝手な都合の良い思い、願いは多いのですが、本当に神様を想っていたのであろうか。
神様に心を向けていたのであろうかと考えさせられ、気づいてみると神様に心を向けることが足りなかったと、あらためて気づかせられたのです。
そう気づくと、新年に向けての思いも一つ見せて頂いたように思うのです。
私は個人的に年に1回は道歌を詠ませて頂くようにしておりますが、今年に思わせて頂く歌として、
◎ 神想い 祈り一つに 合わさりて
出会う真実 喜び生きる
という道歌を作らせて頂きました。
まだまだ稚拙な思いでしかないのでありましょうが、出会う事柄の中に、神様の心を想わせて頂き、私自身も、その心に祈りを合わせていく中で、おかげは必ず頂けると信じ、先を楽しみに喜び生きたいと願うものであります。
今年一年、皆様にとりましても、喜びの多い素晴らしい年でありますように、お祈り申し上げます。
平成十六年 申年 元旦