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〜信心の根幹<掲示板94>〜(編集長から返信)

日々ありがとうございます。

毎回、様々なところに視点を向けて信心を求められているように感じます。

さて、拝詞ということを取り上げておられますが、あなたが取り上げられた拝詞は、神様に対して、仰ぎ奉るという意味と、お働きを認め称える内容、さらにそのことに対して御礼ということが基本としてあるものだと思うのです。

たぶんご承知ではありましょうが、取り上げておられません「取次唱詞」は人間側が日々の御取次をどう願い、どう頂くか、それを神様に誓うと共に、内容のような生き方が出来るようにと、お力添えをお願いしている内容だと思います。

さらに「天地書附奉体」は、それらの願いを受けた神様からのお言葉、御裁伝の意味合いもあろうかと思うのです。

これらは、通常の御祈念の時には、わかりにくいのですが、祭典などの先唱される方を見られるとわかりますね。

あなたが取り上げた拝詞は、祭員の先唱役の先生が唱えられる。

取次唱詞は参られている参拝者代表が唱えられる。

天地書附奉体は祭主の先生が、祭詞の後に中央にて唱えられる。

これをご覧になられると気づかれるかとも思いますが、祭典には祭詞が奏上されますね。

あの内容をじっくり聞かれるとわかると思いますが、教会ごとに願う内容が違われますが、取り組みや、どう頂くかなど書かれています。

つまり、普段の御祈念の時には、取次唱詞の後に、教会によっては、独自に拝詞を作られ唱えられている教会もあります。

ちなみに当教会は、教会長がつくられた教会の拝詞を唱えさせて頂いております。

金光教の拝詞というのは、基本は、最初から最後まで通して見た時、考えた時に意味を成すものだと思いますがいかがでしょうか。

教会によっては拝詞をつくられるかわりに、御本部の教主金光様の御祈念の時のように心中祈念をされる教会もあります。

その場合は、それぞれの信心させて頂く人が、自らのお礼、お詫び、お願い、また取り組み、どう頂くか等々、取り組んで祈る必要があります。

ですから、ただ一つづつを見た内容での判断は間違うかも知れませんのでお気をつけ下さい。

今の日本人の神観というものですが、苦しい時の神頼みや、絶対神、いわゆる「全知全能の万能の神様」というとらえ方が多いのだと思うのです。

つまり、神道など日本の宗教には、教えというものが少ない。

ないわけではないのでしょうが、一般的には伝わっていない。

神社やお寺に参拝してお願いするだけという人も多いのではないでしょうか?

信心というより、初詣や、お彼岸、お盆などしか心を向けない人も多いことだと思うのです。

けれども、金光教の信心では、ちょっとそんな内容からすると、違いがありますよね。

日々、人間は神様に対してもちろん祈らせて頂くのだけれども、神様の方も人間のことを祈って下さる。

教祖様に対しては、

「死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。」

「神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子」

「あいよかけよで立ち行き。」

と立教神伝にあるように教祖様の方に助けを求められる神様。

つまり、神様はおかげをさずけることは出来るのだけれども、神様は姿も見えず、口もないために、人に伝えることが出来ない。

教祖様は、神様の心をわからせて頂くことができ、伝えることは出来る。

つまり、御教えにある。

「道は人が開け。おかげは神が授ける。」

という間柄だと思うのであります。



>教祖様は「難を縁として心を改め、神心となって難儀な人間を助ける身になってくれ」と願われていると思います。



その通りだと思います。

私だとよく「日々の生活の中で出会う様々な事柄の中でおかげを受けて、心を改めながら、神心を現わし、周りの人を助ける御用にお立ち下さい。」とお話しさせて頂きます。

あなたから見ると、生ぬるく感じるかも知れませんが、人間が出来上がるまで、難儀な人は待ってはくれませんから。

また、ここまでで気づくと思うのですが、神様から直接に頼まれたのは、実質、教祖様だけなのですね。

御裁伝なども、この方一代限りと言われるように、他の人には、直接は頼まれていない。

直信、先覚の先生も教祖様から、御取次を頂く中に、御用のお役に立たせて頂けと言われて、取次をはじめておられる。

そのため、信心させて頂くのでも、教師であって取次をさせて頂いていても、人間側から、

「どうぞ御用にお使い下さいませ。」

と願っていくことが必要だと思うのです。

よく教会の御用などもそうですね。

「お手伝いしましょうか?」

というお取次をすれば先生によっては叱られるか、

「お手伝いならいらん!」

と断られることがあると思うのです。

「この御用にお使い下さいませ。」

と願えば、自分から、

「今日はここまでにさせて頂きます。」

と言わない限りは、徹底して御用にお使い頂けると思うのです。

すなわち、神様や教会での御用に、恩を着せるような願いであれば、必要ないと言われるのです。

また、疲れたからとか、用事が多いなど、不満や不足の心は持たないようにするためですね。

自分の方から、使って下さいとお願いしたのですから。

「不満や不足の心の垢を付ける位なら、塵が転がっておる方がまだましじゃ。」

そう言われると思うのです。

そのために、自らの御用のあり方を思う時に「どうぞ御用にお使い下さいませ。」という祈りが抜けると御教えにあるように、

「神を使って、神に使われることを知らない。」

「神を信じる者は多いが、神に信じられる者が少ない。」

そう言われるように思うのであります。



>これを言い換えると金光教は「人間の完成をめざす宗教」と言えないでしょうか。教祖様を人間の究極的な完成されたお姿とも考えられます。

>また金光教は「あいよかけよの宗教」です。



この言葉はある意味、目標としての意味合いだと思います。

教祖様は確かに、最後には完成された姿とも思うのですが、教祖様自身、

「人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい。」

「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」

と教えられるように、まず完成することは生涯かけても無理なのですね。

ただめざす努力、修行は必要だと思います。

また、人間一人で完成を目指す必要もとくに必要ないと思います。

一人では生きていませんから、みなで足らないところを足し合いながら完成をめざされたらよろしいと思います。

「あいよかけよ」は教団で伝えられるように、神と人、人と人、人と万物が共に祈り合い助け合う姿だと思うのです。

先日、ある先生が講話の中で、

『金光教の信心であってもそうですね。

全部が出来る天才になる必要はない。

御教えでも実践でも、信心の取り組みでも、自分は生涯これをしていくのであるという、一つを持つということが必要だと思うのです。

優をとる必要はない。

今、金光教では「御神願成就」ということを言っておりますが、正直いえば、私の場合は、それは考えていない。

私は「つぐない」であると思って信心させて頂いておるのです。

それと金光教は、世間に流される必要はないと思うのです。

教えの言葉であっても一つ一つを大切にすればよい。』

そうおっしゃられたのです。

私の場合の目標というか信心は、「日々の生活の中での積み重ねの信心」だと思います。

お礼を土台にして、今を見つめて、良くなるようにとお願いしながら積み重ねていく。

間違ったところ、気づいたところは、新たに直していく。

いっぺんにどうこうしようとは考えない。

私が編集長をさせて頂いている、このホームページが、私の場合、信心の現れみたいなものです。

最初の土台となる1枚のページから始まったものが、今では何百もの内容につながっている。

よくここまでさせて頂けたなあと有り難く感じるのです。

私は、元は対人恐怖症のようなところがあるんですね。

学生の頃には学校では、あまり話しもせず表情も変えなかった。

数人の心を許した友達にも、ありのままに振る舞えないで自分を押しつぶしたようにしていたのです。

今でも人見知りなところがありますから、御取次や初めての人と言葉を交わすだけでも実は怖いのです。

そのかわり、だからこそ神様に心を向けて祈ることでの助かりを強く求めるのだと思うのです。

教話なども以前は前の人を見ながら話すことも出来なかったのですから、けれども見なければ始まらない、問題から目をそらしてはいけないと思うようになったのです。

人を見ていない時には話しを考えることも難しいのですね。

何を言っていいのかわからない。当然ですよね。問題を見ていない。取り組んでいないのですから。

けれども心が定まりだして、人を見ることが出来るようにさせて頂くようになると、話すことも見えてくる。

「教話の最中でも、窓から見える葉っぱの1枚が動いただけでも『天地の道理』の話は出来る。」

私がお話に困っていた時に当教会長(父親)に言われた言葉を思うのです。

当教会長はよく「『天地の道理』にあう信心」を中心にお話をされます。

そのような私ですから、当時は当然インターネットやメールも使ったことがなかったんです。

けれども、話すことが見えるようになってくると、見えること気づかせて頂くことを伝えたくなるのです。

最初はメールを始めてインターネットの使い方を覚える。

独学ですから、最初は失敗も勘違いも多かったのですが、させて頂くようになると有り難かったですね。

けれどもよく考えてみると私も「御神願成就」にはなっていないかも知れません。

私の場合「つぐない」でもなく、ただ自分がおかげを頂くためにさせて頂いているのかも知れません。

あなたのように、純粋に「心の改まり」を求めておられる方は有り難いと思うのです。

さてさて、最後に思わせて頂いたことですが「心の改まり」ということも、ある意味目標でありますが、展開していく中に、あなたは、どのような取り組みをなされておりますか?

日々の生活の中で、具体的に実践されておる取り組みがありましたら内容も聞かせて頂きたいと思います。

内容が長いようでしたら、投稿雑記集の方に投稿フォームから投稿されてもいいですよ。お待ちしております。



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