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〜信心をさせて頂く心〜(編集長)

 皆様いかがお過ごしでしょうか。

 早くも半年を迎え、御礼の感謝祭を仕えさせて頂きます。

 信心には心のあり方が大切であります。

 例えば「これだけ信心をしているのに」という心には「信心をしてあげている」という心がどこかに隠れているのです。

 しかし、考えてみると信心は自分が辛い苦しいを助けてもらいたいから始めた方が多いように感じます。

 それが、いつのまにか神様や教会のために信心をしてあげているという気持ちに代わってきているのです。

 神様と人間との間を取り次ぐ御取次の働きからの言葉を受け、自らが改まることの嫌気から「教会にさせられている」という思いになり、ついには「教会のためにしてあげている」「神様の言うことを聞いてあげている」という思いになって、ただ我慢や辛抱をしているだけで、根本である自らの改まりからは逃げておるのではないかと思うのであります。

 しかし神様も教会も、そんな信心をしてくれと頼んだ覚えはありません。

 「この難儀から助けてくれ」と頼まれるから「あなた自身の悪いところを認めて改まりなさい」と伝えているに過ぎないのです。

 そのような、自らの悪いところを改まる心から逃げておるから、おかげにならないのです。

 神様は「信心を進めておかげを受けて助かってくれ」と常に願って下されています。

 そこで願われる信心とは「改まりの生き方」ではないであろうか。

 そこに人間が助かりたいがために願わせて頂く「おかげを頂かせてください」という祈りを、神様はどう受け止められるのか。

 神様にとっては「私が悪うございました改まりの生き方をさせて下さい」と人間が祈っておるように受け取られるのではないかと思うのです。

 だからこそ「してあげている」というような思い違いの「するという心」にはおかげはありません。

 「私の方から無理を頼んでのことである」という謙虚さの「させて頂く心」におかげがあるのです。

 共々に心を改めて、させて頂く心で信心を進めて、おかげを蒙らせて頂きましょう。

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