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〜天地と共に生きる2〜(編集長)

 皆様いかがお過ごしでしょうか。

 8月を迎え暦の上では秋となるのでありますが高知では梅雨が7月26日に明け、ようやく夏を感じさせて頂ける季節になりました。

 日本中の広い地域にて梅雨の豪雨で被害を受けられたところがありますが、一日も早い復興をお祈り申し上げます。

 かかわってでありますが、よく災害などが起こると、天災や地災と言われ神様を恨まれる方もあるのですが、最近の災害は人災であると感じるのです。

 山を切り崩し役に立つ木のみを植えて画一的な開発をする。

 また住宅地をひろげるために開発を進める。

 人間が快適に住みたい暮らしたいという気持ち、欲もわかるのでありますが、そこに天地に対する恐れ、ふれてはならぬ所に対する畏敬の念も時には必要でないかと感じるのであります。

 そのところに我が物顔で平気で生活をしておる。

 何故に昔の人がそのところで暮らさなかったのか。

 ただ開発できる力がなかっただけではないと感じるのです。

 本来、そこが危険な場所であることを知っていることもある。

 それを知りつつ無理押しでこれなら大丈夫だろうと自然を甘く見ている面があるのではないか。

 人間には欲というものも、適度には必要であると思いますが欲が過ぎると天地を我が物のように思い得手勝手な行いをしてしまうと思うのです。

 それでも天地は辛抱して人間の行うことを受けきって下されております。

 しかし、それにも限度というものがあると思うのです。

 何事も限度が過ぎると叱られるのが道理であると思います。

   しかも考えても分かるように、その天地の中で人間は生かされ生きているのです。

 そう考えると、天地が主であると感じられませんか。

 そして、天地の間には人が決めたような区切りはありません。

 誰のせいであっても天地から見れば住まうものには分け隔てはありません。

 信心をしていようが、していなくてもかわりはありません。

 ただ一つ、それをどう受けるかは、それぞれのわが心しだいであります。

 信心とは天地の働きの受け方、生かし方を学ぶことではないかと感じるのであります。

 奇跡を願うことだけが信心ではありません。

 生かされていることの御礼を申し、自らの不行状のお詫びを申し、自分一人が得をするのではなく皆と共に助かり立ち行くことを願って実直に実行させて頂くことが金光教の信心ではないかと感じております。

 見た目が派手なわけでも特別変わったことをするわけでなく、その日その日のおかげを受けて元気に生きていくことが大切なことなのではないかと思うのであります。

 共々におかげを蒙らせて頂きましょう。

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