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〜神など存在しない<メール>〜(編集長から返信)

ご意見有り難うございました。

一言メールにご意見を頂きました。

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神など存在しない。
神は人間が作り出した創造の産物です。
正しい宗教を信じる事は良い事です。
しかし、現在日本では宗教=金儲けになってい
るのが現実であります。
例えばお墓の戒名。
お金を出せば出すほど良い戒名がもらえるのは
なぜでしょうか。米国では戒名がないです。

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投稿というわけではなかったのですが、私も同感のところがありましたので、掲載させて頂きました。

現在、宗教というと金儲けに思われているのは仕方がないことですね。

それは何故かというと、基本にあるのは宣伝力というか、広告力というか、やっぱりお金のある宗教(全てが金儲けとは言いませんが)が目だつんですね。

金儲けをしていない宗教は、宣伝など広告が無いために知られにくいというのも現実にはあると思うんですよ。

現在、日本の宗教など届け出されているものだけでも数え切れないほどあります。

そのために、正しい宗教に出会うこと自体が難しいと思います。

当教会なども、門が両手広げたくらいしかないんですから、知ってるのは町内周辺の人ぐらいかも知れません。

掲示板も作れませんから、門にみ教えを日めくりカレンダーのように吊り下げてるだけです。

近所を散歩している人が見てくれているだけですが、当教会にそれ以上の宣伝広告するだけのお金は現在は恥ずかしながらありません。

さてさて、話しが外れましたが、同感に思ったのは、戒名などの話し。

なぜ戒名にお金を出さねばならないんでしょうか?

金光教では、付けてくれ言われても、それを付けたからといってお金は頂きません。

金光教では「諡号(しょうごう)」、通称「おくりな」と申すのですが、基本的には生きていた時の名前に敬称を付けております。

名前を使わないおくりなもあるのですが、それは個人の生き方などを現した文字を選んでおります。

私個人が思うのですが、良い戒名とは、どういうことでしょうか。

仏教系の方がいらっしゃれば判りやすいのですが、個人的には、必要ないようにも思います。

どんな戒名であれ、結局は亡くなられた方をお呼びするための新たな名前でしかありません。

遺族からしてみれば、親であったり、子供であったりして、実際、お墓参りしても戒名で呼んでいる人はいないでしょう。

生きていた時の名前で呼びかけていることだと思います。

結局、おくりなを使うのは、宗教関係者のみということだってあることと思います。

私は戒名とお金は別にした方がよいと思うのですが、どうなんでしょう。

ここまでは同感に思った所ですが、ここから先は、私の神観でも感じて下さい。

>神など存在しない。
>神は人間が作り出した創造の産物です。

匿名投稿された方の言葉ですが、いわゆる絵に描いたり、彫り物にしてみたりという神様は人間が作り出した創造のものです。

み教えに、

「(教祖)から、神様を連れていなれはせぬ。神様は目にも見えず、手にも取られず。ただ一心に拝んで、いただくのぞ。よって、(氏子)、いただきなされい。おかげは、受けねばありがたきことが知れぬぞ。おかげを受けだしたら、ご恩は忘れられぬぞ。」(一部判りやすく訂正)

つまり私が思うのに、自分が助かったりモノの見方感じ方を人に伝えるために神様というものは必要ではないかと思うのです。

私個人が思うのですが(研究している人から見れば違うと思われるかも知れませんが)、言葉が足りなければ申し訳ありません。

金光教であれば、教祖様が、九死に一生を得た時に、天地を通じて自分を生かそうとする存在を感じた。(教祖様は農業をされていました)

そして、その何か判らない存在に対して感謝御礼を申すために天地金乃神という名前を付けて感謝御礼を申した。

さらに生かしてくださった命を無駄にしない生き方を求められていかれたと思うんです。

その中で、生まれてから知らないまでも、その気づかせられた天地金乃神という存在に対して、ご無礼があったのではないかと思われ、お詫びを申された。

その自らの体験、求められた生き方を人に伝えた時に、それを聞いた人も助かることになった。

教祖様はその時でも、自分の力で助けたとは思わないのですね。

天地金乃神という存在が、私を通じて人を助けたのだと思う中に、自分の生きる道を見つけられた。

教祖様は、天地金乃神という存在と、難儀に苦しむ人との間にあって、共に助かる道を求める「取次」という役割を始めたのです。

そこには、ただ純粋な心での神様が存在していたと思うのです。

そして、お礼の気持ち、助けたいとの思い、そこが原点であるゆえ、金光教では商売とは違いお金を特に求めない。

一昔前では、布教された先生が、信者は多かったのですが餓死されたということもあると聞いたことがあります。

教会として財も大切ですが、神様とは別ものであります。

助かったりした人が純粋にお礼を申される分には、教会として有り難く受けさせて頂く。

金光教で大きく財のある教会とは、それだけ多くの人が助かっているということなのでしょう。

そのために「お金を多く寄付したからおかげを頂く」あるいは「お金がなければ助けてもらえない」などは全くなく、「お金」と「助かりのおかげ」とは違うことと考えるのです。

お金はなくても助けて下さいと願えば、金光教では分け隔て無く誰でも祈らせて頂きます。

金光教にとって教会とは、助かる生き方の話を聞いて、自分の生活に照らし合わせ、改まっていく稽古をする場所であると思うのです。

教会にある「天地書附」も神様ではありません。ただの神様の名前と、どうすれば助かるかを記した忘れないための「祈る目当て」のものであります。

教会の先生は、参ってこられた方と話す中で、その人の助かりの心を引き出し、生きる力の心を伝える人だと思います。

金光教では、現教主に祈って頂くのでも、何の制限もありません。

岡山県にある本部広前に参って、取次をされている現教主金光様のところに行って、助かりを願えば、祈って下さいます。

人と人、あるいは、人と万物の中に、互いを思い助かってくれと祈る心が生まれた時に、そこに神が生まれるのだと思います。

その心の状態が「和らぎ喜ぶ心」「和賀心(わがこころ)」だと思うんです。

「神様など存在しない」と思うことは自由ですが、「神様は存在する」と思える方が、心だけでも助かるのではないでしょうか。

金光教の原点は「人が助かりさえすれば結構であります」という教祖の言葉です。

どこまでも人の助かりを祈ることが大切だと私は思わせて頂きます。

私は金光教は正しい宗教だと信じております。


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