ーー「運命」とは、人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る人間の力を超えた作用。めぐりあわせであり、将来のなりゆき。ーーと辞書などには書かれてあります。
私が、信心させて頂く中に、ふとこの言葉から感ずることは、人間が日常生活している中に、人間の力を越えた神様が、天地の命(いのち)を運んでくだされる事が、運命だと思ったのです。
それは、人間一瞬先のことは誰にも分からないものです。皆さんは、先のことが分かると言う方もおられるかも知れませんが、それは、自分が生きておればこうなるであろうと言う予測に過ぎないのです。
一瞬先に、病気や事故どんなことが起きてきてもおかしくない世の中で私達は生かされております。それを思う時、一刻一刻、天地の命とつながっているから私達は生かされているのです。
天地の命とはなんでしょうか。神様の働きすべてでありますが、その中でも目に見えて分かりやすいものは、食べるものであり、また水であり。はたまた空気なども天地の命だと思うのです。
世界中には、食べる物が無く、飢餓で死んでいく人がおります。雨が降らない、水が汚染されている、様々な事情で、命をなくす人もあります。空気なども、大気汚染、様々な人災によってもたらされる物によって、病気になったり、死んだりする人たちもまだまだ多いのが現状なのです。けれども死んでいく人たちには神様が命を運んでは下さらないのでしょうか?
神様は、どんな中にも「生きてくれ、助かってくれ」と祈られ願われ命を運んできて下さいます。中には、それならば、なぜ死ぬことがあるのかと思われるかも知れない。けれども、一つ考えて下さい。今のこの世の中を作り出したのは神様でしょうか?いや違います。今のこの状況を作り出したのは人間であります。
金光教の御教えの中に、
「天地金乃神はこの世の親神であるから、天地金乃神に信心しているといっても、していないといっても、天地の間に生きているからには、天地金乃神の子に変わりはない。」
「よく、神に捨てられた捨てられたと言うが、神はめったに捨てはしない。みな、人間の方から神を捨てるのである。」
と教えられています。
神様はせっせと天地の間に生きているものすべてに命を運んで下さいます。けれども、その中にあって、人間が我情我欲を起こし、好き勝手、わがまま放題に命を無駄にしていくのです。
神様とは人間一人ひとりの本当の親神様なのであります。人間は、子供を産んだ時に、我が子だからと言って、どうやって育ててもいだろうと言う人もいますが、本当のその子は、人間が生んだ以前に、神様にとっては、この世に命を運んで生み出した神の可愛い我が子であり、神になれる可能性を持った人間であるのです。その為、神様は我が子と思い祈り願いをかけ命を運んで下され、人間の親に「神様の子供と思って育ててくれ」と預けられているだけなのです。その為、金光教では、人間の親になる人は、その事を「神様の願いに沿って人のお役に立てる子供に成長させて下さい」と願うのであります。
人間一人ひとり、男も女も大人も赤ちゃんであっても姿形関係なく神様は命を運んで下さり願いを込めて下さり生かして下さいます。けれどもそこから次の、どう頂いた命を生きるかということは、人間に任されているのです。その為、神の願いに沿って生きてくれる人もあれば、神の願いに沿わないように生きる人も出来てくる。けれども神様は、どんなに育っていこうとも祈り続け見つめ続けて待って下されているんです。
世の中には運命を悲観される方もあります。しかし、これは親神様の本当の願いに気づかれなかったのだろうと思います。また、人間の親に教えてもらい気づかせてもらえなかったこともあるのかも知れません。その時には、周りの気がつかせて頂いた人が教えてあげて下さい。気づかせてあげて下さい。
その時には、まず自分の命にもつながってある天地の命の神様に「どうぞこの人を助けるお役に立たせて下さい」と願わせて頂き話してあげて下さい。そうすれば、神様はそこにお働き下さり神様が生まれてくるのです。金光教ではその事を「生神(いきがみ)」と言うのであります。
金光教の教祖様は、
「『天地金乃神と人間との間柄を、参って来る者に話して聞かせよ』と、神が仰せられるので、金光大神は話をしているのである。」
「金光大神のことを生神と言うが、金光大神ばかりではない。この広前に参っている人々がみな、神の子である。生神とは、ここに神が生まれるということで、金光大神がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられる。」
「金光とは、金光るということである。金は金乃神の金、光は天つ日の光である。天つ日の光があれば明るい。世界中に天地金乃神の光を光らせて、おかげを受けさせるということである。」
「人は金光大神のことを生神と言うが、金光大神も、あなた方と同じ生身の人間である。信心しておかげを受けているまでのことである。あなたも、神の仰せどおり真一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい。」
そう教えられております。
金光教の信心とは「神人(しんじん)」と申して、神様と人間が、あいよかけよ(共に助かり立ち行く)の生き方になって、人を助けて神になる信心であります。
運命という神様が運んで下さった命を無駄にせず「世界の平和と人類の助かり」と願われている。現、五代教主金光様の願いを大きな所から出来なくても身近な所から、祈りに、対話に、行動に現していきたいものであります。
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