『御礼の言葉の裏に小利口の/真にならぬ信心の振り』編集長
皆様いかがお過ごしでしょうか。
11月を迎え、土佐高岡教会におきましては11月15日に生神金光大神大祭並びに立教記念祭を仕えさせて頂きます。
明年は立教150年の御年柄を迎えます。
教祖生神金光大神様は、どこまでも信心を大切にされたと感じるのであります。
信心とは生き方、生活そのものと申しても過言ではありません。
教会に参る、神社仏閣の前で手を合わせておることが信心ではありません。
あれこれと勝手な願い事をすること、我が意を通すことがおかげではありません。
日々生活させて頂く中に、我が生き方を道理に照らし改めて、実意丁寧に信心生活を進める中で、受け止めさせて頂くことがおかげであります。
道理に合わぬ事で我が意に沿わぬからと不足を言うようでは、おかげは頂けません。
おかげにならぬ事を人のせいにしておるようでも、おかげは頂けません。
おかげが頂けないのは、自らの生き方が天地の道理に沿うておらぬがゆえに、おかげが頂けないのであります。
神様に口先でお詫びを申すことよりも、我が生き方を改めて、他を責めない、和賀心にならせて頂ける信心の稽古を取り組んで頂き、めいめいが金光教の信心を語るのでも、どうぞ私の生き方をご覧下さいと申せるような陰日向のない生き方をさせて頂きたいものであります。
金光教の信心とは和賀心が神に一心に向かうのを神人(しんじん)と申すのであります。
共々に万事おかげにさせて頂きましょう。