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〜私にとっての金光教の信心〜(編集長)

 9月20日に当教会ホームページも、ありがたく3周年を迎えさせて頂きました。

 代わり映えもあまりせず申し訳なく思うのでありますが、見て頂き一人でも多くの人の助かる働きになればいいなあという祈りのもとに続けさせて頂いてきました。

 これが信心か?と思われることも多いと思われるでしょうが、私も一人の人間として、いろいろ経験したり感じたりする中で助かっていきたいとの思いであります。

 今回は3周年記念ということで、この場を借りて少し信心の話をご覧いただきたいと思います。

 信心と聞いてどう思いますか?拝むだけや自己犠牲や相手に自分の考えを押しつけることが信心ではありません。

 私が思う金光教の信心とは自分も相手の人も助かる道を求めていくことが信心なのであります。

 それは、相手のよいところを見つめて生かし、自分のわがままの部分は少し我慢する。

 相手の思いがわからない、我慢して行き場のない思いを話し合う場所が教会であり、その中で喜びを感じ感謝したいなと思う時にお礼を申す相手が好機を与えてくれた気づかせてくれた神様ではないでしょうか。

 そうした、ちょっとした人や神様と仲良く生きるコツをけいこすることが信心なのだと思います。

 そのため金光教には戒律もなく、こうしなければならないという義務も特別にはありません。

 一人ひとりの人生はみな違うものです。

 そして、その人生をどう生きるのかを決めるのも結局その人であり、私は本人が気づき助かりますようにと神様に祈りながらもお任せするしかないのであります。

 私は教会に来られた人に助かりに向けてけいこされた人たちの生き方を聞いて頂き、来られた人が信心に気づいて頂く参考にしてもらう手助けをさせて頂いているのだと思っております。

 だからこそ占い師や祈とう師と違い、ただ願ってこられるだけでは「ハイ、ハイ」と返事して「おかげを頂かせて頂きましょう」と神様に願わせて頂くだけで言いようがないのが本心というのか残念に思うのであります。

 金光教の信心は自分から求めていかないと「何も言ってくれない」「人の経験したことばかり聞かされるから何が言いたいのか意味がわからない」などと思われる人も多いのだと思います。

 体験したこと疑問に思うこと感じたことなどをもとにして求めていってこそ信心の面白み(?)があるのではないでしょうか。

 気づいたことを大切にしていってもらいたいものであります。


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