(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る

ー 金光教(こんこうきょう)とは ー

 金光教は奉祭神として、総てのものを生かし育みて下されている、宇宙(日天四【太陽】・月天四【月】・地球との相関関係にある宇宙空間など)、時空(巡り合わせ繰り合わせの働き)、空気、水、いのちを含む(天の恵み大地の恵みなどの働き)を総称して天地金乃神(てんちかねのかみ)様としてお祭りしています。
※人間のためだけに働いて下されている神様ではなく、定められた道理の中で事象を現し下されている。
※天災・地災も神様の働き、産まれる・生きる・死ぬるも神様の働き、人間にとって無駄事に思えることも、神様の前には無駄事ではない。
※起こる事柄を幸福、不幸と分けて考えているのは人間だけであり、総てを含むものが神様のお働きである。

 また教祖様は自らの生涯を通じ、起こり来る難儀苦難と信心を持って向き合う中に神様のお働きを感得なされ、神様の思し召しのままに神様と人間との間にあって人間の願いを聞き届け、神様の働きに人間が合わせ助かっていくための方途(信心)を天地の道理(病苦災難など起こり来る事柄とは逃げたり避けたりは出来難く、受けるということを前提として、人間としてどう生きるべきであるのか)として教え伝える御取次の働きをもって人間を助け導き下された方であり、人間を助ける神の働きを生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)様として奉っております。

 神様のおかげとは、人間にとって都合の良い奇跡や御利益のようなものだけではない。
 願う願わない、求める求めないにかかわらず生きていくための営みが総ておかげであって、また生活の苦しみは人の痛みの分かる修行でもある。
 年齢に関係なく病気、怪我、不幸、苦労の中であっても、いのちがあり、生かされている場所があり、生きているお役(仕事など)があることがおかげである。

 金光教の御霊観として死んだ後には、神様のお役に立ち、生きている者(子孫など)を守る働き、導く働きの役目があるとし、生きている間に人間(自分と他人)を助ける修行をしているのであって、死んで気楽になるのではない。
 生きている間に修行をしていないと死んでから助かり難く苦労をすることになる。

 生活の中での修行などは、年齢、役割、立場によって違うものである。
 親は子を育てる役目、子は親を育てる役目、社会など他人との人間関係は互いを育てる役目である。
 自分を犠牲にして他人を助けることを神様は喜ばれない、自分も他人も同じ人間であり、いのちの上では平等である。

 自らの役割を正直に実意を持って丁寧に行っていく中で、周りの人も助かっていく事を神様は喜ばれる。
 その役割の担える人間は各自によって多少の違いがあり平等ではない。
 よって総てが出来る必要はない、相手を認め生かし自らもお役に立とうとする、求める努力、稽古、辛抱が大切であるが、内容は各自によって違うのである。

 その自分はどうあるべきなのかという内容を求めていくことが、金光教の結界取次である。
 取次者は客観的に参拝者の願いを聞かせて頂く中に、教祖を始め先輩諸師の体験、また自らの体験を元に、神様の御働きを感じ、参拝者がどうなされていくことが、皆が助かることになるのかを話させて頂くのである。

 そのため参拝者に強制するものではない、しかし、取次者の言葉をヒントにし、実情に合わせて展開し実行に移していく中には、自分の見えていなかったところを感じたり、周りに影響を与える働きに変わってくることもある。
 そこには自分のいのちがあり、お役があり、それを行えるだけの状況があった、そこに祈りがあり、取次のお働きがあり、実行をさせて頂くことが出来た。
 出来たということが有難いのであり、それも金光教では神様のおかげであるのです。

 金光教の信心は、それらのことを取り組む稽古なので、ただ参拝すればとか、好き勝手に願い事を並べることが信心ではなく、心を改め生き方を変えていくことが大切であります。
 そのためお供えの多少が問題ではなく、黙って頭を下げて馬耳東風としていれば、棚から牡丹餅のように御利益があるような信心とは、違うのであるということを心に留めておいて下さい。

 金光教は、

大いなる天地に生かされる人間として
すべてのいのちを認め、尊び
神と人、人と人、人と万物が
※1あいよかけよで共に生きる世界を実現する


※1 「あいよかけよ」とは、共に助かり立ち行く生き方です。

 宗教です。(金光教宣言)

 金光教の取り組み、願いとしては、

御取次を願い 頂き
神のおかげにめざめ
お礼と喜びの生活をすすめ
神心となって人を祈り 助け 導き
神人の道を現そう

 という「神人あいよかけよの生活運動」を行っております。

 その他、各教会でも、それぞれに教会長が願いを持って目標を掲げております。

 当教会においても、「信心実践目標」を定め、信奉者それぞれが、願いを持って取り組んでおられます。

 1859年に教祖金光大神(こんこうだいじん)様は、天地金乃神(てんちかねのかみ)様からのお頼みのまま、人の願いを神様に、神様の願いを人々に取り次ぐようになりました。

 教祖様は、一人ひとりの苦悩や願いを神様に祈り、その人その人の実情に合わせて助かりの道を示しながら、世界の助かりを祈り続けました。その願いは、現代においても教主金光様をはじめ、信奉者一人ひとりの祈りとして日々続けられております。

 金光教のみ教えの中に、「天地金乃神は宮社に鎮まって居るような神ではない」と教えられ、また教祖も「金光大神は死んでから後は、『金光大神、助けてくれ』と願う氏子の所には、どこにでも助けに行ってやる」と伝えられ、教会だけが広前ではなく、天地の間すべてが同じ広前であると考えております。それゆえに金光教の教会のあり方としては、本部広前の延長として、信心のけいこ場所としての働きがあります。

 金光教には神様や教祖の姿形を模写した、ご神体を奉るという考え方はございません。「人間はとかく形にこだわるから、金光大神は形は残さない」と言われ、金光教では、ご神体ではなく、生き方の手本となる天地書附を掲げさせて頂いているのであります。

 そのため各教会のご神前の中央に掲げられている天地書附はご神体として奉ってあるのではなく、書かれてある事をいつも心に忘れないようにして信心に取り組ませて頂くための物であります。

 金光教には、御札や御守りというものはございません。あえて御守りとするならば、天地書附に書かれてある内容を心に頂いて、わが心に掛ける御守りでございます。

 金光教では、教会にて御取次をさせて頂くと、御結界(トップページ広前写真右の柵に囲まれている所)にて、神様と人間とを取り次いでくださる先生より、御神米(ごしんまい)を渡させて頂いております。これは、上記の通り御守りではございません。人間が神様に願わせて頂きましても余程、高徳な方でない限り、神様は御姿も見えず、御声が聞こえません。その為、神様からの「助かってくれ」と言う願いが込められた、神様からのお返事が御神米なのです。

 それゆえに、どこの教会にて頂いたものであったとしても、粗末に扱ってはならないと考えるのであります。御神米を頂く時、心に神様を頂くと言うことを忘れては何にもなりません。御取次を頂いた時には、神様を忘れていかないようにしたいものです。

 金光教は、神様の大いなるみ恵みの中で、つながり合う私たち一人ひとりが幸せで実りある人生を築いて行くことを願っております。


(*^ー゚) 教会だよりトップページへ戻る

Copyright(C)2001-2023 Konkokyo Church of TosaTakaoka. All rights reserved.