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まず私とインドとの関わりについて

 私は学生時代に
「インド文学」
という世にも珍しい学問を専攻しておりました。
 どうしてこんな誰もが興味を持たない浮き世離れしたゼミを選んだかと申しますと、それはひとえに私自身からわき出てまいります反省に依るところからです。(別に水子を作ったわけではないですよ!!)学生時代の私は文字どおり
「自堕落にもほどがある」
生活を送っておりました。
 まあ発情した野生の猿のようなものでお酒と女の毎日をエンジョイしていたわけです。そんなこんなで進級することさえ危ない状態の私でございました。このこととインド文学とどういうつながりがあるのか?と思われるかもしれません。実は私ここらへんで自分もまじめに勉強をしたいと思ってしまったのです。
 そして誰も選ばないそしてほぼマンツーマンで学べそうなゼミを選択したわけです。
しかし元々それほど勉強熱心でない私はこのゼミで相当苦しめられました。
「原文を読む」
ことが基本となりまずインド古典のデーバナーガリーをローマナイズして、それを梵英辞典で英訳し、さらにそれを英和辞典で日本語に直す、というよっぽどのひま人かアホなヤツにしか出来ない作業を永遠と繰り返していたわけです。
 1日で2〜3行しか進まないことに取り組んでいたのですから私も相当ヒマ人だったのでしょう。ではでは原文のデーバナーガリーとはいったいどのような文字だったのでしょうか?
 現在のインドでも読める人はよっぽどのエリートだけだそうです。しかし今なおこの文字を使っている国もあります。          その国はネパール王国で、関西空港に来ているあの
「ロイヤルネパール航空」
の機体に書かれているあのグジァグジァした文字です。何の訳にも立ちませんが私はあの文字を読め!といわれたら発音する事は出来ます。この神の文字=デーバナーガリーは意外に理論的で母音と子音の組合せから出来ており、お隣の熱い国・韓国のハングルと非常に似ております。

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 私はインドという国が昔も今も大嫌いです。その頃お世話になった先生が
「アンベトカルとガンジーの人権論」

「同和教育」
の授業を持っていまして、その先生がインドに行く際にビサがおりなかった!!のです。(あれだけルーズな国がよくもニッポンで働く3流大学講師の思想まで管理できたなあ、と別の意味で感心いたしましたが)しかしなんとなめた国でしょう?自分たちの思想(あれを思想とは呼びたくないのですが)と相反するものは一切受け入れないという、ばからしさ!!まったく腹が立ちます。
 ニッポン人が書いたインドの本はたくさんありますが、なんとも情けない・・たいがいあまりにも多すぎる物乞いのことと旅先で出会った理不尽さを書きつづるだけです。このへんはただただ恥ずかしいばかりか、聖地と呼ぶ割にはインドの文化に対して無知すぎるのでは?とおもえてやみません!!
 そういう私も実はインドに行ったことがございません。すすんで行きたい国でもございませんしねえ。しかしいつか将来世界一周の旅に出るなら必ず通らずにはいられない場所ですので嫌いなのでインドには絶対に行かない!!と言い切ることはできませんねえ。 どうして今インド古典なのか?と問われますと、実は先日私の部屋の整理をしていましたら、私の卒業論文が出てまいりました。読んでみますとこれが非常に面白い!!(自画自賛で申し訳ないのですが。)あの                              「自堕落にもほどがある」
生活からよくもこんなにも優れた論文が生まれたものだ!!と思えたのです。(まさに自画自賛以外の何ものでもないですね)    その反面何と堅苦しい文章か?とも思いました。なんせインド文学を学んだ人には当たり前のことでも普通の人は知らなくて当たり前!!なことの説明を無視しておりましたし、原文を読んだ証拠としてバカなほどにあるひとつの単語の和訳に必要以上にこだわったりもしましたので・・
 そんな私が社会に出て十分に人間も丸くなり、今だからこそそんな風に解釈したり、もっとウェットに富んだ和訳が出来そうな気がいたしまして、
「昔とった杵柄」
をご披露する気になったわけでございます。皆様どうぞよろしくお願いいたします。

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第一編!あの女修行者に酒を飲ますことが出来るか?

 改めまして私の卒業論文を読み直してみますと、バラバラと私以外の人に書いてもらった文字が見つかります。よっぽど締め切りに追われていたのでしょう。卒業の年の1月10日に受理されたと記録されていますが確かこの頃まだ私の就職は決まっていませんでした!!しかし今と違いましてまだバブルの真っ盛りでございましたので、危機感の欠片もなかったように覚えております。
 私のゼミの教授は「鬼の**」と言われるほど厳しいお方で、たとえ就職が決まっている人でも卒論で落とす!きまじめな面白い先生でした。
 皆様はご存じでしょうか?インド人の理想的な人生として、人生を四つに分け、満足できる人生を手に入れますとその後修行に出て真理を探す・・・出家することを人生の最大の目標にしていたわけです。
 ヨーガなんかもこの一環でございまして、そんなこんなで修行者は一般庶民の憧れの的でもあったわけです。
 昔々のインドでのお話です。サッチャタパービーという名前の若くて色白で美しい女修行者がいました。このサッチャタパービーは覚えにくい名前ですのでので、ここではサッチーと呼ぶことにいたします。
 サッチーの徳と美しさはは街中に月や太陽の如く知れ渡っていました。もう庶民はくしゃみをしても、転んでも、競馬で大穴がましても
「南無 サッチー」
と唱えるほどでありました。これは外国人が
「オーマイガッー」
と言ったり、イスラムの人が
「アッラーハッラー」
そしてベトナム人が
「チョーオーイ」
というのと同じ感嘆詞だったのでしょう。
  昔々のインドでもやっぱりお祭りがありました。庶民は普段は口にしない魚や肉のごちそうを食べ、スラー酒という果実酒を飲みお香を焚いて楽しんでいました。そして1人の金細工人が酒を飲み過ぎて酔いつぶれて
「南無サッチー」
と口にしました。それを聞いた1人の賢者が
「馬鹿者よ!!心が動いて定まらない女に礼拝するなんて、君はかなりの馬鹿者だよ!!」
と言い口論になりました。インド人はヒマなのか本当に口論が好きなようでして、たわいないことで口論を愉しむようなところが随所にみられます。そんな不益な口論の末、明日から一週間以内にサッチーにスラー酒を飲ますことができるか否かを賭をすることになりました。
 賭金は千金で今のお金に直していくらぐらいなのかは解りませんが、すごく大きなお金の象徴として千金という言葉がよく使われています。(今で言う100万$と同じかもしれません)そしてこの時賢者は他の金細工人に大きな声で話しかけその賭の証人をたくさん作りました。相手の金細工人は相当酔っていたので明日の朝???状態になってしまうといけないので・・・しかし賭の対象にされてしまったサッチーから見ますと難儀なお話です。
 この様にインドの古典ではけっこうこのパターンが多くて、女性が貞操を守ることができるか否かを賭けたりしていたようです。

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 さてサッチーはまさか自分がそのように賭の対象にされていることもつゆ知らず、墓地の中で自分の居場所を作りシコシコと修行をしておりました。
 彼女の修行は食事を抜くことでした。女性のダイエットは美しく見せるには好都合なのですが女性らしい曲線がなくなってしまい大方色気のない渇いた女になってしまうのがオチだと私は思います。男性の眼からみて賛否両論なのでしょうがいろいろな好みがあっ
てしかるべきだと・・・いうことにしておきましょう。
 ちなみに私の恩師も断食の経験者で、限界を超えて断食を続けますとすごく気持ちよくなり、快感になるそうですよ。どうぞお試しを!!
 賢者は金細工人と賭をした翌日朝早く、自分も修者のカッコをしてサッチーのいる墓地に行きました。そしてそれほどサッチーから遠くないところに自分の居場所を選びました。
 サッチーは墓地の隅で瞑想に入り修行をしていたのですが、賢者は墓地の中央で修行のまねごとをしていました。それを見たサッチーは
「なんせ墓地の中央に居るぐらいなので非常に通力のある行者に違いない」
と思い、
「敬意を表することにしよう」
と近づいたのですが、賢者は声をかけませんでした。
2日目も同様に一言も声をかけず、3日目賢者は初めて後ろを向いたまま
「行け」
と言いました。
 4日目彼女は賢者に
「どうだ、行乞は疲れないか?」
と挨拶の言葉をかけられて大喜びしました。
5日目にはもっともっとたくさんの言葉をかけられてサッチーは少しの間、座ってから立ち去りました。こんな陳腐な声のかけ方がインドの文化史上に残っているのですからインドも少しは面白そうでしょう?
 そして6日目に賢者はサッチーに
「妹よ、どれだけの食事を抜いているのか?」
と訪ねました。サッチーが
「4食です」
と答ますと
「私は7食だ」
と言いました。(しかし賢者は毎日夜中に十分な食事を採っていました)
 そして賢者はとどめを刺すべく
「私は出家して、6年にもなるが未だ静寂の真理には到達できないでいる。私は母のところに財産があるので環俗(普通の人間社会へ戻ることです)しようと思う」
と言いますと何と大衆の憧れの的サッチーまでもが
「私も修行の毎日が不満になりました。もしあなた様が私を捨てないのなら私も還俗いたします」
と言い出すではありませんか。
 この日が先の金細工人と賭をした日からちょうど7日目でした。そして賢者は街に還り、サッチーに酒杯を持たせスラー酒を飲ませることに成功しました。
 まあなんと幼稚なお話とおっしゃらないで下さい。幼稚なのはインドの古典であって、私は適当に訳をつけただけなのですから。  

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第2編!悪いことをしない女はいるか?

 また別のお話でございます。あなた様にもしお子さまがおられましても子守歌代わりにこれを読まないで下さい。
これも当然インドの昔々のお話です。
インド古典ではさいころ賭博をして領土を取り合った王様の話などがたくさん残っております。(まったくあほなヤツと思わざる得ませんが)今回のお話はラージャ=王様とバラモン=司祭とがサイコロ賭博をするお話です。
 ちなみに大昔マハラジャというディスコがありましたが、このマハーは偉大なという意味で、ラジャは王という意味です。直訳いたしますと「偉大なる王」というディスコとは何のつながりもない名前だったのです。
 王様は金のサイコロを投げる際にこんな賭歌を歌いました。
 「全ての河は曲がって流れて、全ての森は木から成り立ち、全ての女は静かな場所(機会)を得れば悪いことのみをおこなうー」
 この歌を歌うと必ず王様が勝ち、司祭が負け続けました。司祭は次第に
「このまま負け続けると家の富を全て失ってしまうだろう」
と心配しました。
 そして王様がサイコロを投げる際に歌う歌が気になってしようがありませんでした。
 確かに河が曲がって流れているのは真理であるし、まっすぐな河を作ることは無理だろう、同様に森だって木のない森を作ることは無理だろう。しかし女はどうだろうか?まだ誰にも見られたことのない女を監視しておけばどうだろうか?と考えました。
 生まれたばかりの女の子を家に閉じこめて隠して育てて王から金を巻き上げようと考えました。何とも気の長い国なのでしょうか?赤ちゃんが成人するまで待っているなんて。
 そしてインドでは昔から(そして現在でも)女性はニッポンの中学生ぐらいの年齢にりますと、何も知らないまま男性の元に嫁でいくのが習慣なのです。(自分より賢いと困るのでしょう)
 それでも10年ほどかかるのですから、まったくインドは悠久の地ですよね。時間の流れが違うとはほんとよく言ったモノです。    さっそく司祭は貧しい1人の妊婦を見つけ
「きっと女の子を産むだろう」
と予測して彼女を連れて帰りました。
 この司祭も一応は男の子を産むのか?女の子を産むのか?ぐらいは見分ける念力がありました。
 そしてやっぱり女の子が産まれました。司祭は女の子が成長するまで王様とは一切サイコロ賭博はしないと決めました。
 そしてその女の赤ちゃんが10才を越えた頃に再び王様をサイコロ賭博に誘いました。王様は10年前と同じ様に賭歌を歌い出しました。王様が歌い終わるとすかさず司祭が
「私の娘は例外だ!」
と付け加えますと、それ以降は常に司祭が勝ち続け、王様が負け続けるようになりました。
 王様は司祭の家に戒を守っている娘がいることに気付き、手下の中でも男前の手下を選び司祭の娘の戒を破るように命じました。
 この手下は司祭の家からそれほど遠くないところに香料を売る店を出しました。司祭の娘に仕える待女が彼の店の前を通ったときに
「お母さん」
と呼びかけました。そして泣きながら
「会いたかった」
などと言い出すので待女もすっかり
「この男は自分の息子である」
と信じ込み、彼の店にたびたび香料を買いに来るようになりました。そのたびにこの王様の手下は代金はいらないと返しました。そしてある日にです。この手下は
「司祭の家にいる美しい娘の噂を聞きました。美しい娘に執心が生じました。私は彼女を得ないと死ぬでしょう」
と待女に打ち明けたのです。
 「思うつぼ」
という言葉はこういう時のためにあるのでしょうね。
 待女が帰宅いたしまして司祭の娘にこの様に問いました。
「若い男があなた様とお会いしたいと申しておりますが、どのようにしたらよろしいでしょうか?」
そうしましたら司祭の娘いわく
「もし、お前が(司祭に解らぬように)彼を導くことが可能であれば、会っても良い」
と答えたそうです。
 この様に王様の手下の男前は命令どうりに司祭の娘の戒を破ることに成功したのだそうです。
 そうとも知らずにまた次の日も司祭は王様とサイコロ賭博をして、再び王様が常に勝ち、司祭が負かされるようになったということだそうです。
 果てさて皆様のガールフレンドや奥様は大丈夫なのですかねえ?    

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もうそろそろお分かりのはず、私の卒業論文のテーマは賭博だったのだ

 賢明な私のホームページの読者の方々はお気付きだと思うのですが、私の卒業論文のテーマは
「インド文化史上における賭博について」
というような、とりあえずまじめな学生が取り上げるはずもないようなテーマだったのです。
 私の卒業後にも
「インドのギャンブルについて卒論を書いた学生がいた・・。」
とゼミの中で語り継がれたのだそうです。それならそうと現役の時に少しは誉めて欲しかったと思うのですが。
 古代インドでは賭博も
「イエスか?ノーか?」
二者択一の原始的なものが多かったようです。多くは
「とても出来そうではないことを出来る、もしくは出来ない」
と賭けるのです。
 この様な昔話が残っております。バラモンはナンディという名の牛を生まれて間もないころから可愛がっておりました。そしてある日長者の所へ行き
「この都で誰の牛が最も力が強いであろうか?」
という話になりました。
 すると長者は
「私の所にいる牛だ!!」
と答えたので、バラモンも
「私の牛はすごくて、百台の荷車を引くことが出来るのだ!!おそらく私の牛がナンバーワンでしょう!!」
と口論になりました。
 やり取り上長者も
「それなら賭をしましょう。」
と言い、またしても
「千金」
を賭けた賭が成立いたしました。
 バラモンは長者との賭の当日も
「きれいに洗ってやり」
「香料をつけ」
「ごちそうを与え」
「首に華を飾って」
やりました。
 長者は100台の荷車に砂や小石、石などで満たしナンディに結びつけました。さていよいよ賭が始まります。常識で考えますと100台の荷車を引くことは難しいようなのです。
 バラモンは自らムチを挙げ
「引け!!角なし!!運べ!!角なし!!」
と叫びました。
 ナンディ(牛)は「角なし」でないものに対して「角なし」と叫ぶとは何事だ!!と怒り、4本の足を柱の様に動かさずにじっと立っていました。長者はこの瞬間に、バラモンに対して
「お前の負けだ!!千金を払え!!」
といいました。
 長者との千金の賭けに負けて、失意の中にいたバラモンにナンディーは
「バラモンよ!私がこの家に来てこれまでに、何か器を壊したり、砕いたり、他の場所で大小便をしたり、しましたか?何故私を角なしという言葉で呼んだのですか?これはあなたが悪いのであり、私は悪くはありません。もう一度長者の所に行き二千金の賭をしなさい」
といいました。
 バラモンが再び長者の所へ行き、2度目の賭がおこなわれることになりました。この時バラモンは
「引け!賢き者!運べ!賢き者!」
と声をかけたのでナンディーは100台の荷車を気持ちよく一気に引っ張ることができました。
 これにより2度目の賭はバラモンが勝ち二千金を手に入れたのでした。
 お話はここで終わるのですが、教訓ですね。口は災いのもとだということです。 

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