木 村 君
「伸びよわが子ら」や「みち」,「心を開く」で紹介されてきた木村秋裕君の中学時代から31才,現在までの歩みを,紹介します。
いずれの原稿も,自閉症児のライフステージや教育環境・社会環境について考えさせられる,大切なメッセージが込められています。そして,お母さんの確かな対応がきらりと光ります。
「中学生の我が子」 木村暉子 伸びよわが子ら 1982.1.1
「息子の高校入学をめぐって」 木村暉子 会報第18号 1982.7.20
「ライズの実習」 木村秋裕(本人) みち第23号 1984.12.1
「『青年クラブ』と息子」 木村暉子 伸びよわが子ら第3号 1992.6.1
「写植で一人前の仕事」 古屋道夫 心を開くNo.21 1993.2.18
息子は31歳になりました。過去に書いた原稿を読み返してみて,やはり現在の状態をお知らせしておかなけば片手落ちのような気がします。というのは丁度10年間勤めた印刷会社を昨年辞めましたので,報告という形で書かせていただければと思います。
印刷業界も,時代の波でOA化され,息子の為に一台だけ残されていた写植機も,すべてコンピューターに変わりました。能力のある若い社員が増え,その中で秋裕はワープロでの仕事をパートタイムで,実働に対しての報酬のみでよければという約束で働いていました。指導すればコンピューターも操作できるけれど,その時間もないので,社長さんからはどこか他に良い就職先があれば考えてください,ご自分も捜してみるよう心がけると勧告されました。そのような状況下で10ケ月位が過ぎた時,ある方の紹介で,福祉雇用で大手の会社が募集していることを知り,面接に行きました。各会社で仕事の内容が少しずつ違っていましたのて,今までの経験が生かせるような仕事のある支社を希望したところ,運よく採用していただき,今年の12月(1998.12)で再就職して丁度1年になりました。
サブコーチをしてくださる社員のもとで,データの収集,作成,投入の重要な仕事をさせていただいています。
臨時雇用という形で,時間給ですが,朝9時から夕方の5時まで,残業はなく,この一年間で二回のボーナスもいただきました。
時々,連絡帳で会社での様子や,仕事の内容,連絡事項等を知らせていただき,こちらからも家庭での様子や,疑問,質問などを書いて,書簡を換わしております。
何より,本人が大きな変化にも順応し,活き活きと通勤している姿を見ると,大人になったのだと頼もしささえ感じます。
余暇は,雑誌を読んだり,カラオケボックスで歌うのが楽しみで,次々と新曲を覚えているうです。ゆうあいピックでボーリングに参加した際に,スペシャルオリンピック東京の活動を紹介され,現在は土曜日はバスケットボール,日曜日はサッカーに参加し,プログラムのない時期には,小学五年生より続けているスイミングに日曜日は通っています。又,月一回の青年クラブのボーリングで皆さんに会うのが嬉しく,マイボール,マイシューズ持参で参加しています。
以上この二,三年間で,状況が一変した就職や,生活環境について報告させていただきました。
(木村暉子)
中学生の我が子
私の息子は今中三で普通学級に在籍し,週数時間,同じ校内の情緒障害学級に通級しております。
小二の時,習志野にも通級の情緒学級が誕生,以来,親学級で健常児との関わりを持ちながら,情緒学級では個別指導に重点をおき,成長を見守ってきました。
小五の時には画期的な介助員制度が,又中学入学時点では,中学校にも通級制の情緒学級が,市の親の会の要望で開設され,私の子には成長時期に合った環境の中に入ることが出来,恵まれていたと思います。
とは言え問題なく月日が過ぎた訳ではなく,何度となく修羅場を切りぬけて来たのは,こういう子を持った親なら誰でも経験していることでしょう。
それでも小学校までは理解ある先生方のご指導で,学習にも意欲を示し,とても良く面倒を見てくれる友達によって対人関孫も,ぐんと広がりました。
いよいよ中学生。他の小学校から入学した生徒達には,かなり異常な子として息子が映ったのでしょう。
本当にさまざまな問題が起こりました。息子が優しい女の子の側に寄っていけば,思春期を迎えた女の子には,その一つ一つの動作が気に入らないといった時期も何ケ月か続きました。男の子には先生の目のとどかない所で,いじめられていたようです。首や手に傷をつけて帰ることも何度かあり本人に聞いても絶対に相手の名を言いません。学校でのことは親に□出しして欲しくないといった感じです。そんな中でも「学校に行きたくない」とは一度も言ったことがないだけに余計,可哀相でなりませんでした。
中三,担任の先生が変って間もない五月,朝自習で先生はまだ教室にいらっしゃってない時,一人の男の子が30センチの木の定規の割れ目にカッターナイフをはさみ固定したもので息子の耳を傷つけました。私が病院に駆けつけた時は,三糸縫合した後でした。事後処理に情緒学級の先生,担任の先生は全力を尽してくださいましたお蔭で,今は以前の明るい表情が戻りつつあります。
息子が名指ししたクラスの中で怖がっている七人の男の子を各々面接した結果,
●勉強は自分達より出来るのだから,掃除をしないとか変な行動をとるのは,やれない振りをしているのだ。(それが出来ないところが問題なのです)
●いじめると発狂したように騒ぐのでおもしろい。(思うように言葉に出して表現できないからなのです)
●いじめても,やられっぱなしでしかえしをしない。(健常児と対等には到底,太刀打ちできるものでないことを承知しているのです。相手の胸の名札を引きつかんで抵抗するといった程度しか)
といったような理由でした。
そして今回息子を傷つけた子の話した一言に,私は唖然としました。
「中三になって,いつまでも木村をいじめていると,高校の内申書に悪く書かれるから,止めるつもりでいた。」これが現実なのです。
少しでも長く健常児との触れ合いの中で社会性を身につけさせたいと望むことは困難なのでしょうか。
今年は国際障害者年,私たちには今更という気持もしないでもありません。
目に見える障害者だけでなく,目に見えない障害者に対しても理解を示してくださいと願わずにはおれません。
(木村暉子)
息子の高校入学をめぐって
二月初旬,私立高校入学試験のトップを切って,現在息子が通学しているM高校の入試が行われました。科目は不得手な理・社を除く三科目。第三志望校だけに,とに角入試の練習のために受けさせた学校でした。というのも第一志望は,マスコミで紹介された長野の某高校が,何度か学校訪問をし,校長先生ともお話した結果,合格できそうな感触を持っていたからなのです。
M校は面接試験が専願の場合のみあり,併願者にはなかったことが何より幸いしたのでしょう。合格通知が一週間後に届きました。そして九分九厘入学できると思っていた第一志望校は,保留という形で最終選考に残り,再度面接を受けたのですが「本人のことを思うと,遠く両親の手元を離すのは今の状態では,とても可哀相だ。これまで伸びてきた力を本校では,他の生徒の関わりの中で摘み取ってしまい,伸ばしてやる自信がない。地元の高校に合格しているのなら,そこでやってみて,それでも駄目な場合はその時考えましょう。」ということで,本当に涙をのんで断念したのでした。
他の受験校も結局,面接で落されたのだと思います。不本意とはいえ残るはM校のみ,どのような結果になるかは,何ごともやってみなければ分らないこと。今の段階で最善を尽すより他なくM校に入学させることにしました。入学式後,担任の先生と面会し,中学の情障学級の先生も加わって,息子の生育歴,中学校での様子,指導面でのこと等を話してくださいました。
「自閉の子は他人から話しかけられても,そっぽを向いて素知らぬ顔をしたり,小さな声でしか話さなかったりする。木村君がどれだけ相手に話しかけられるかが,その人に対して心を許したバロメーターになる。」との説明に,担任の先生は「若い先生方の中には,声が小さい,態度が悪いなどの生徒に,すぐビンタということもあるので,最初にそのようなことをされると,余計萎縮して登校拒否にならないとも限らない。一学年全員の先生方に実情を説明しておきましょう。」といってくださいました。クラスの生徒達へも,ことある毎に息子のことを話題にし,細かい指導をしていただいているようで,今のところ大禍なく過ぎてきました。担任の先生は,ご自分で想像していたよりもずっと言語や行動が幼稚なことに驚かれ,始めて接する自閉症児に,たいへん戸惑っていらっしゃるようですが,よく面倒を見てくださり,電話でのやりとりが多い日が続きました。乗物は大好きなので,毎日バスや電車に乗り継いでの通学は上機嫌,定まった時刻にカバンとサブバッグを持って家を出て行きます。
先日,家を出てしばらくしてからバス会社より電話があり,息子のカバンがバスに置き忘れてあるというのです。急いで取りに行き,学校へは私が持って行く旨,電話を入れ駆けつけました。
−学校で待っていると良いが?
−途中で引き返してくるのでは?
−駅あたりで泣きべそをかいているのでは?
等々,心を迷わせながら急ぎました。丁度一校時の終った後で,半べそをかいて待っていました。何はともあれ,学校で待っていてくれたので安心はしたものの,過去自分の物に対する強い執着性を思うと考えられないような出来事でした。
まあ,こういう子ですからいろいろと頓珍漢な出来事は起こりますが,それは覚悟の上ですし,余り気にはしていませんが,今こうして書いていても明日はどんな事が起きるのか?,この道を選んだのは間違っていなかっただろうか?,早くから手に技術をつけさせておいた方が良かったのでは? などの疑問が未だに私の胸中で葛藤するのです。でも農業園芸には興味を示さないし,専門学校は,意欲のない子には相当の厳しさがあるだろう。やはりあれこれと考えた結果,今の時点でもっと社会性をつけさせたいと選んだ道だから,やれるところまでやってみようと,自ら不安を追い出そうと必死なのです。
(木村暉子)
ライズの実習
『青年クラブ』と息子
就職して4年,もうすぐ25才になる息子秋裕は,毎朝決った時間元気に家を出ます。理解ある社長さんに支えられ,然したるトラブルもなく現在まで働き続けてこられたことを有難く思っています。
幼児期の,片時も目を離せなかった頃が嘘のような今の生活は,やっと人間らしい生活を営むことができるようになれたのかとも感じ,この平穏が長続きする為にも彼には今までにも増して,出来るだけ多くの体験をさせるよう心がけ,仲間との交流の場が持てるように手助けをしたいと考えていました。
そんな時,会員の子ども達も高年齢化し,就職した青年達も増えてきた中,就学時とは違った余暇の過ごし方が重要視されてきました。友達を作るのが下手な子ども達でも,親が機会を設定すれば何とか友情が芽ばえてくるのではないかとの願いを込めて,画期的とも言える『青年クラブ』が昭和63年度の総会より発足したのです。スタートするや否や,その年の5月には千葉動物公園へ,8月には一泊旅行で群馬県武尊高原へ,そして10月の連休を利用して横浜の「あゆみ荘」へと意欲的な活動が開始されました。
その後,年一回夏のお盆休みには一泊旅行を欠かさず実行しています。「横浜博」,修善寺,三津,そして館山の「華の舎」へと継続され,さて今年はどこにしようかと旅先を決める時は目が輝きます。子ども達の希望もさることながら,母親達の方が一生懸命になってしまうのはどうしてでしょうか。
就職先では友人を作ることが難しい彼も,青年クラブの仲間を友達として意識するようになったのは,この年一回の旅行でだけではないのです。青年クラブは毎月第四日曜日に,京葉線千葉みなと駅近くの「サンキョウボール」でボーリングを楽しんでいます。始めの内は,投げるスタイルといい,ボールがピンに当るまでの時間の長さといい,見られたものではありませんでした。父親達が参加しての名コーチのお陰で,回数を重ねるにつれ,段々と型らしくなりスコアも増えてきました。お互いにライバル意識や欲も出てきて,上達の早さには目を見張るものがありました。
そして昨年(平成3年8月のスペシャルオリンピック東京大会と,10月の全国大会に初参加し,見事,各々賞を獲得するに致り,益々団結を深め,友情も育っていると確信しました。これは子ども達だけではなく親達にも言えることでした。
自分の働いたお給料で,青年クラブの仲間と旅行やボーリング,食事をしたりすることが,彼にとって働く指針となっていれば,それも一つの生きがいではないかと思うのです。
子どもから母親,そして父親達へと輪が拡がり,更に何かの具体的な形になればと望んでいます。
これからは,彼等の兄弟姉妹へも悩みが多面化してきます。
まだまだ親の活動は続きます。
(木村暉子)
写植で一人前の仕事
写植機を操作している木村君
職場に定着するまで
JR千葉駅から総武本線で30分,八街市は人口5万,今年市になったばかり,交通の要衝で古い田舎町。都市化の波は名産の落花生の畑にはまだ押し寄せていないが,駅の付近には新しい家が並び始めている。
木村君の勤める印刷会社はこの住宅地の中にある。10坪程の部屋にデザインなどをする机と写植機が数台。訪問した時,木村君はガッチャン,ガッチャン音を立てながら写植機(写真植字機)を駆使して,広報誌の版を作っていた。
写植とは,写植機で感光紙に文字を一字ずつ印字して印刷の版を作る作業。この方が和文タイプの版より,字がきれいだが操作が複雑で印刷工程で一番手間がかかる。
社長さんは町の印刷屋さんらしい,誠実さを感じる方。お話を伺う間,時々彼に仕事の指示を与える様子は,きびきびとして仕事を任せられるという信頼を表している。
受ける方も,丁寧に確認しながらそれを受け止める。
仕事ぶりについて話を伺う。
出来上り具合と速さはその技術者として水準に達している。簡単なものなら全体のデザイン配置を考えての作業を行える。
勤務態度は真剣で真面目である。勤務時間は午前9時から午後6時迄,実働8時間,残業はいやがらずに行う。有給休暇は10数日あるが,毎年余らせている。家族旅行などでまとめて使い,事前に申し出るので,会社としては日程上,当てに出来て有難い存在である。
自閉症ゆえの問題はあるが,本人と周りの努力で克服してきている。新しい仕事をする場合の指示は,普通の人より,細かく丁寧に与える。覚えるまで手間取るが,覚えると忘れない。
職場の人間関係で,最初のうち苦労した事があった。職場の女性達から,間違いが多く迷惑を受けている,という理由で排斥された。本当は無口なので互いに馴染み込めないためのようだったが,言い出した女性の方が辞めてしまった。この時は仕事の指導はしつこくして,職場での行動でいけないことは注意した。
現在,職場内は主婦が多く,子どもを育てる面倒みの良さで,うまくいっている。
木村君が作成した版下
貴重な人材になった
趣味・興味はひとつの事に熱中するが,それがある期間すると変わる。以前は毎週,週刊誌を数冊買い込んできて,あるタレントの記事を捜して読んでいたようである。それが
買ってこなくなったので,理由を聞くと,お金がもったいないので止めたそうである。
現在は歩くことに凝っており,家から駅まで数キロのバスに乗るところを歩き,駅から会社までは遠回りをして,歩いて来る。無論会社を遅刻することはない。そのため以前はお腹が少し出るくらい太り気味であったが,いまはスリムになってきた。
掃除など写植のほかの仕事はいわれないとしないが,いまの若者はおおむねそうである。
座って仕事をするので,耳垢のたまったのが見えることがある。呼んで頭をかかえて,掃除をしてあげると気持ち良さそうにしている。
社員が宴会をするときは参加し,お酒は飲まないが,歌うのが好きで,一本調子だが,ほめられると何曲でも歌う。
写植は体力も根気も必要なので,技術者が少なく,町の印刷屋では求人に苦労している。それで現在,木村君は会社にとって,貴重な人材になっている。給料はこの地域での水準で,手取りで14〜15万になる。
話題を一般化して自閉症者を就職させるについて,どのような注文があるか伺う。うまく答えられないが木村君のような人であれば,障害を理解した上で,機会があれば採用したいという。
以上が,職場での状況の概要である。
木村君の生育歴
木村君は昭和42年生まれで,25歳。家族は両親と妹,弟の5人。
お母さんより,今までの生育歴を伺う。
2歳半頃になっても,話しかけても反応がないし行動は固執性が強い。この時点より障害と道連れで歩む事になる。幾つかの専門機関で診療を受け,現在まで続いている所もある。幼稚園は先生が一人付ききりになり,母親も付添う。バス,電車の絵,文字に熱中する。小学校1,2年は母親が学校内で待機して就学。以後先生に恵まれ,新しく出来た情緒障害児学級に通級したり,介助員が付くようになったりで,成長がめざましかった。
成長に合わせて凝るものがカレンダ一画き,折り紙,地図画き,パズル,プラモデル作りと変わっていく。
小学4年生のとき書きつらねた漢字
中学は,健常な生徒とのギャップで苦労が多かった。2年の時,てんかん発作がある。以後現在も薬を服用している。
高校受験に際して,木村君がある高校を志望した動機と決意についてという作文がある。母親に助けられて書いたものであるが,本人の貴重な発言として,その一部を引用させて頂く。
「ぼくは,3才になる前に自閉症と診断された。普通の人なら,自然のうちにできることが何年もかけて練習しなければ出来ない。
一番苦手なことは,人に自分の気持ちを伝えることだ。これはとても難しい。自分で良いと思ってやっても,逆になってしまう時がぼくには,あまりにも多すぎた。そのためにたくさんのトラブルも起こしてきた。
(幼児期,小学校の記述の部分省略)
しかし,中学に入学してから,だんだんできないことが増えてきて,人との心のつながりが苦手なぼくは,誤解されることばかりだった。男子から殴られても,いじめられても,やり返す勇気がなかった。ぼくは,止めてほしいと言う表現が分からなかったのだ。それで何度もいじめられた。ぼくはくやしかった。けれど,母に,このことをうまく伝える事ができなかった。
(8行省略)
この学校はとても良い学校だけど,家族と別れて,長野で寮生活をしなければならない。ぼくは初め,遠いし,淋しいし,不安なのでどうしようかと迷ったが,この学絞なら,自分の気持ちを素直にだすことができるような気がした。今まで人にたよってばかりいたが,少しずつ自信をもって自分でなんでもやれるように成長したい。そして,ぼくにしかできないものを,きっと見つけられるにちがいないと思った。
自閉症は,一生かけなければ治らないらしい。でも,今まで経験できなかったものをこの学校にかけてがんばりたい。」
事情があり高校はここではなく,県内の私立に入学。担任の先生が,親子の意欲を組み取り,熱心に指導をしてくれた。数学,漢字書取は,クラスのトップ集団に入り,全体の成績は中程度であった。
高校を出て,専門学校に進学する。そこでタイプ,写植,ワ一プロを習う。期間は1年だが,マスターできなく,2年間かかって習得した。
21歳でいよいよ学校は卒業となり,専門学校より就職先を見つけていただき,2箇所を訪問,面接したが不採用となる。
今の会社に就職したいきさつを社長と母親の話よりまとめる。
社長が昭和63年の早春,人手不足で写植のオペレータが得られず捜しているとき,その専門学校の生徒の募集広告を見かけた。学校に卒業生を求人したところ,就職の決まらずにいた木村君を紹介された。
学校の理事長,校長とご両親と一緒に面接したが,第一印象では無理と思えた。ご両親から給料は障害者雇用への助成金だけでよいから何とか雇用して欲しいと頼まれた。最初は見習いということで勤めることになった。
以上,就職までの状況の概要を述べたが,母親よりここ迄こられたポイントを伺う。
幼い時より,文字には異常なくらい執着があり,国語辞典を玩具代わりに,いつも指だこができる程,漢字やカレンダーを書いていたので,仕事として役立てばと思い,学校を選択する際に考慮した。その選択が間違っていなかった(?)ことと,秋裕の成長の時期に,それぞれ,よい出会いがあったことが幸せにも,今の平穏な生活が得られたのではないかと思っている。
会社が生活援助も
今後の見通しと希望について,社長と母親から話を伺う。
社長の話。
現在の能力でこの仕事に通用するのでここにいて欲しい。将来,ご両親が高齢になられ,生活面でも自立が必要になった時,会社で近くにアパートを準備して生活の援助をしながらでも,働いてほしいと思う。
写植も技術革新され,電算写植などが導入されつつある。いずれはコンピュータを使って,今の仕事をするようになるであろう。木村君がそれに対応することは可能だし,そうして貰わなくてはと思う。
母親の話。
楽観的な考えであるが,社長さんのご好意に甘え,このまま,戦力となっているようなので,続けて行けるのではと思い,今のところ心配はしていない。細かい神経を使う仕事で,目も悪くするのではないかと思うが,健常な人も,同じ作業をしているのだから,仕事として割り切り,気分転換をはかってやるように心がけている。
おわりに
おわりに取材した者の感想を述べさせていただく。
木村君は本人の作文に見られるように,自他共に認める自閉症障害を負ってしまっている。そして,自己認識をこれだけ持ち,表現できる自閉症者は少ないと思う。それだけに,彼の障害故にもつ苦しみ,悲しみが読むものの心に迫って来る。
知的能力の高さが残されていたので,就職してここまでこられたとも言えるが,その道のりは本人も家族も,大変な努力をしてきている。
特に母親が強い望みをもち,彼を成長させる機会を見つけたり,作ったりしたこと。
彼自身が成長しようという,意欲をもっていたこと。熱中するものが変わっていく過程で,だんだんに彼の世界が広がって来たことが大きな要因と考える。
その彼でも,健常者と明らかに違う,障害を感じさせるものがある。これから自立して,社会に生きていくために幾多の困難に遭遇するであろう。
私達は,この人達を成長させる努力をすると共に,社会の多くの人たちが,自閉症児者のことを理解し,受け入れられるようにする努力をしなければならないと考える。
(古屋道夫)