自転車店の親父が「客待ち」の間、様々考える時間は、十分ある。
「ん〜っ」  それって、暇って言うこと・・・・・(^^;)

「寿親父の野望」はつれづれなるままに・・・・・・・・・・

みんなが自分の自転車を大切にする。

 

物を大切にする。

 

人間を大切にする。

 

世界を大切にする

 

これで世界は平和になる。なあん〜だ。簡単だ〜ぁ!!

 

物事、まず、単純に、大切な「核」の部分と方向性を外さないで行動しよう!!!

 

出来ないと言っちゃいけません。

わがままでも良いです。でもそのわがままをちゃんと自分が意識して理解していることが大切です。

国も社会も集団も個人も、自分の勝手な思いで、動いて、ごちゃごちゃになっているのならまず他の人々と対話したり行動して、共有して行くしかない。自分の欲と他人の欲を一緒に理解して行くしかない。

主体(自分)を大切に思うのなら、自分を助けてくれる、支えてくれる客体を大切にする生きた哲学を身につけるしか「自己の安堵」につながる平和を築く道はないはずです。

ただ、客体は何度も何度も主体を裏切るでしょう、
それは単に、主体(自分)の思い通りにならないということ これが学ぶということだ。 

我々のほとんどが 希望や夢先行型だ。 「こうであったらなあ」とか「こうなりたいなあ」という発想の強い情熱や強い憤りを持って改訂する意志で将来の人生や社会がどうなるかが決定されていく。つよい情熱や憤りを持って生きていきましょう。
 
○99/12月の中旬 東京12CHのニュースの中で、すばらしい若者の生き方を、見せてもらった。
有る企業に就職して、営業で、ある商品を売っていたが, この青年はその商品がお客様に勧めて良いものかどうか、疑問を持った、「自分だったら絶対、買いたくない。」し、、お客様がその商品 を買うことは、お金を捨てることに等しいと判断し、その会社をやめ、友人と自分たちで、ネットワーク関連の小さな会社をつくって、四苦八苦しながら、経営し、最近やっと、ペイするようになってきたとの事だった。
我々はどうだったか、自分の生活のために、自分をごまかして、もしくは合理化して、まやかしの商品やサービスを売ったり、提供したりしていなかっただろうか、自分の金儲けのために、他人に迷惑をかけるようなものを売っていなかっただろうか、その先にあるものは、薬害エイズのミドリ十字の企業行動ではないのか。自分たちの金儲けのためなら、他人が何人死んでもいいんだとなってしまう。 自分たちの行動の奥底にそのような精神が流れている以上、何度も、このような悲劇(互いに加害者になったり被害者になったり)を頻繁に繰り返すであろうし、決して改善されることもないだろう。上述した若者達の行動は先ず、その悲劇を起こす根がないことだ。自分のために、他人を泣かす事をしない。この彼らの精神に乾杯したい。このような若者の精神と生き方が「人類の意識革命」なのだろう。
見習わなければならないと同時に、若者達に対して、良き先輩でなかった我々!!謝罪しよう。 寿親父


厳しく暖かい社会へ
父として母として、「何不自由なく子供が育つこと」を願ってきた愛にあふれた存在は、子供が、親にねだれば、何ら労働することなく欲しいものがすぐ手に入ることを教えてしまった。 その愛は、その子供に対して、どれ程の深い罪を犯してしまったことになるのか???。子供達が自分の力を頼りに生きる道を閉ざしてしまった我々親の優しい愚かさを顕著に見る昨今。 親は子供に餌の取り方、生きる知恵を行動レベルで教える存在であるはず。 もしこのような優しい親に育てられたのなら、お父さんお母さんはあなたに「何不自由なく大変な苦労を経験せず素直に育って欲しい」と願ったため、決して弱く育って欲しいと思ったことはないはず。その親心をくんであげて欲しい。と同時に自分に課せられた苦役を十分に理解して、自分であせらず自分を育てて欲しい。そしてあなたが親になった時、このような罪を子供に犯さないようにしてほしい。
寿親父

追記   子供達に、答えを教えるんじゃなくて、どんどん問題を提起して、知的嵐の中へ、置いてあげることが、子供だけではなく人間にとって、頭脳を鍛え、様々な内在している能力を引き出す事になることが分かって来た。。 「この問題を君ならどう解決するのか」「それを君はどう感じるのか?」、「こんな時、君はどんな風に回避するのか」 ある意味では、教育のみならず、生活の場全面においても、「教師や親や先輩は教えない・答えは自分で出す」教育の場こそが求められている。 道に迷っている人には、聞かれたら親切に教えてあげたいものだ。この程度の論旨の切り替えが出来ないのは、単に意地が悪いだけのことだろう。昔、先輩が「教えてやらないよ」といっていたのを、「嫌な野郎だ」と思っていたが、現実に自分で自転車修理の方法を様々に編み出していく事ができたので、今は比較的楽に仕事がこなせる。感謝感謝  寿親父

ゴールデンウィークで暇で、ボーッとテレビを見ていた。ある高校2年生の娘が親に内緒でクラブ?へ「パラパラ」を踊りに行ってるんだそうだ。夜遅く帰宅する。門限なんか守らない。お母さんが怒っても、言うことも聞かない。
一生懸命クラブとやらへ通って、踊ってるんだそうだ。それをテレビ番組でやっていた。母親が怒ると娘が「お母さんも私ぐらいの年頃の時は、同じ事してたでしょ、今しかできない事なんだから、好きにさせてよ。」と言って、母親を言い負かしていた。
それは違うでしょと言いたい。いまこの年代の子供達が一生懸命しなければならないのは、「どうやって餌を取るかを学ぶことだ。」 今、パラパラを踊っていることが、その子の自立に繋がるというのなら、大したものだが、今パラパラを踊ることが、将来も、親がかりであることを暗示しているんじゃないのか? パラパラを踊るというのが趣味程度のものなら、自分で餌がとれるようになってからでも遅くはない。 沖縄に「ドリームプラネット」という学校?があるのをテレビで見たがその学校の若い女性の校長先生は、入校する生徒に、はっきりと言う「将来、あなた達は、なにを家業にしてお金を稼いで、生きていくのかを自分で学んで欲しい。」と、そんなことも考えたこともない子供達ばかりで、泣いたり、一時的に空白の時間を過ごしてしまうが、徐々に、自分自身で模索し行動しているのを見たことがあった。(もちろんやめていく子供達も少なくはないが)


行動の選択
少し前の話になるが、ある問屋の社長が当店に自転車の納品の為に、来店した。
互いに長話を交わしてたのだが、その中で、彼が悔しそうに私に話した事がある。
土砂降りの雨の中をいつものように納品車で走っていたが、道の真ん中でエンストしてしまった。
ワンボックスには荷物が満杯で重い。長い車の列が出来てしまったが、彼一人では、車はびくとも動かなかった。誰一人、雨の中、降りて、助けてくれない。頼んでみたがやっぱり誰も一緒に車を押してくれる人はいなかった。とのことだ。 後日、トラックの運転手にそのことを話したら、そんな時は「¥1000出すから、お願いします。ぐらいのことを言わないとだめだよ。」と笑われたとのこと。 「金次第なんていやな世の中だよ。」と笑っていた。
しかし、 誰かが道の真ん中でエンストで困っているのをみてこの社長はどんな行動をするのだろう。
A.見て見ぬ振りをするのだろうか 以前自分がされたように
B.¥1000払えば助けてあげるよと金品を要求するのだろうか
C.雨の中、濡れるのも気にかけず、困っているドライバーを無償で助けるのだろうか。
この社長も、私も、誰も彼もが、その時その時この時この時に今まで「生きてきた自分」の全てがその一点に反映されるんだろう。 まさに皆が皆、神に試されているんだろう。どこの宗派にも属していない私でもこのような気持ちになる。   寿親父 (いつも善行をなすことが出来ないことも分かっている。)

我々みんな、平和ないい世界づくりを希望し、目指している。 問題は、それぞれみんな「自分に」いい世界づくりをしたい。もっと分かりやすくいえば、みんな平和な世界を目指しているんだけど「自分に都合のいい世界を作りたい」という至極当たり前のノイズが今の世界をゴチャゴチャにしてしまった。、一人でも多くの人が相手の状況に配慮し、その次に自分の立場を理解してもらう相互理解への努力姿勢が実現できるか。モラルハザードを十分防止し、より「多くの人々に感受される平和」が実現されるかどうかがかかっている。別の段でも記述した通り「客体(他の人)は何度も何度も主体(あなた)を裏切るでしょう・・・」それに対して、「何度も何度も裏切られても、裏切らない本当に強い人々が今求められている。」・・・

PS 上記の様に「何度も・・・・・・本当に強い人が求められている。」と記述すると、記述した私が先ずその責任を求められる。そして、幾分、その真偽をためされるのは、仕方がないとしても、その求められる「核心」の部分は人それぞれ「己(自己)の内部にむかうべききっかけの言葉」としていただきたいのであって、「裏切らない」という意味がどんな失礼なことをしても、怒らないのか?とかどんな要求しても良いのだ!という解釈をする人がいるとすれば、それは、誤った解釈であります。もし幼い子供のわがままを横暴を、ひとつの場で許せば、その子は他の場で、もっとエスカレートさせて実行しようとしますし、それを許すことは、「不幸」を間違いなく育て、悪い人間関係を構築していることになります。
弘法大師がおっしゃった様に「試すべきは、吟味すべきは一個人(主体)にとって、他人(客体)ではなく、自分」のはずです。言葉は足りないところがあります。足りないところの方が巨大なのでしょう。もしみなさんが、ご自身の様々な体験を「生かし」、お読みいただけるのなら幸いです。 

01/04/28
「他人なんか信用するもんか!!!」という人がいます。たぶんいざとなると、私もいれてほとんどの人がそうではないでしょうか。
それは裏返しにすると、けっこう人を頼りにしたり、人に依存しているからに他ならないのです。問題は「自分は(自分を)信用できるのか?」という命題です。これが最重要課題です。      


偽善は善???
最近、いろんな事で勘違いをしている人がかなり多いことに気がついた。その中でも、どうも「偽善は悪だ」と勘違いしている人がほとんどのようだ。問題は自分の行動が、社会や、人に貢献したか、十分に機能したかを問うべきであって、「自分のことをよく知っている自分」が「自分」を評価し「100%善人でなければ善人ではない」という定義を掲げてしまっている。、一度でも嘘をついたり、人を裏切ったり、悪いことをしたら、もう自分に悪人のレッテルを貼ってしまうようならこの世の中、悪人しかいないはず。悪いことをしたというのなら反省して今度は良いことをしようと決意し実行すればいいことで、絶対的に善でなければいけないというのであれば、まさに夢も希望もない。それこそ絶望だ。失敗したり間違ったことをしたのなら今度は、直せば良いんだ。その改訂力こそが必要なだけだ。
どうやら、「自分は、純粋に善い人間ではないので、いいことをするのはこっぱずかしい」というような稚拙な気持ちが多くの人達の中で働いているようだ。そのような稚拙さを大人までもが持っている。それ自体が重大な問題だ。 このような勘違いを多くの人々がすることは、多大な社会的損失以外の何ものでもない。勘違いというのは本来、他愛もないものだ、しかしながらその世界、その社会、その集団、その個人にとっては重大な問題だ。

あるカウンセリング活動で、知り合った中年の女性は、「左の胸が右の胸に比べて大きいこと」にコンプレックスを持っていて婚期を逃し、寂しく一人住まいをしていた。尖端恐怖?か何かの悩みで、カウンセラーとのセラピーを継続しながら、エンカウンターグループに参加した折り、「左側の胸は、心臓の鼓動の刺激で、どうしても大きくなるのよ。」という他の女性の参加者の雑談を聞いて、彼女の身体的な問題も今までの悩みも吹っ飛ぶように解決してしまった。エンカウンターグループの中でその彼女が自分の愚かしさとしてこのことをお話になったのだが、「左右が同じでなければ美しくない、変だ。」という勘違いが一人の女性の人生を、悲しい方向に変えてしまった。
個人も集団も社会も世界も、どんな重大な勘違いをしているのか、怖くなる。 勘違いで滅亡しては・・・・・・・・・・

 

01/02/21
白人至上主義の連中がいる。白人だけの国を作りたいのだそうだ。こちらに害がなければ
そのような国を作らせてやりたいものだ。何故なら、その連中は、その国の中で別の差別する対象を無理矢理作り上げ、その対象を排除しようとするからだ。何度も何度もその悲劇を繰り返す。何度、その行為が実現しても、彼らの心の晴れることはない。何故なら、真に排除したいのは客体(他人)ではなく、自分の中にある「悪しき自分」だからだ。内在する「悪」を他人に投影して、投影した人間や動物や物を排斥しようとする。自己の中に存在する排斥したい「忌まわしい自分の局面」を認め、真正面から相対する覚悟と勇気と理性を持たないかぎり、むなしさを更に重ね、罪を重ねてゴルゴダの丘に登るしかなくなるのかも知れない。「相対する」とは「敵対する」ことではない、「終生、つきあう事」だ。無理矢理排除しようとする試みは意味がないこと位は少しばかり人間を長くやっていると簡単に答が出るだろう。その悪しき自分の存在を認め生きていく事にこそ、価値がある。なぜなら、全人格的に「悪」ではないからだ。


01/0721
我々は一体、何に飢えているのか。 食べるものも豊富にあり、信じられないほどの物余り現象のなかで、我が国のほとんどの人々が実質上、飢えてなどいないにもかかわらず。
ささやかな希望や欲望ではなく、我々の欲望が強欲(希望してもどうあがいても手に入らないものを求めるきかん坊の欲望)に育ってしまった、育ててしまったのであるならば、今度は質素に慎ましやかに生きる自分を育てる以外に生きる道はない。ものに不自由であっても、不自由に感じない知恵と生活を、ものを大切にし、人を大切に思うまさに「人間道」へ入る入り口に我々は立っている。

誰からも愛されず、必要とされないという心の痛み
これこそが最もつらいこと
心の飢えなのです。
パンへの飢えがあるように
豊かな国にも、思いやりや愛情を求める激しい飢えがあります。
与えて下さい。あなたの心が痛むほどに
マザーテレサ

一見、豊かな国の飢えた人々に、う〜ん、何を与えるのだろうか?、何か物を与えるのではなく、その人々が、その試練を自分で乗り越えていく力を身につけていく為の環境や条件 教育といった目に見えないかもしれないインフラが必要とされているのかもしれない。
私も、思いやりや愛情を激しく求めているのだろうか?しかしながら 誰かに与えて貰いたいとは思わない。
その世界が思いやりが無く、無情であれば、それを強く憤り、思いやりのある、愛情のある世界に一歩でも踏み出していけるかどうかが全ての人々の肩にかかっている。マザーテレサやガンジーのような方々が一時大きな影響力を持ったとしても、世界は変わらない。誰かに意地悪されたから、今度は、自分より弱い者を見つけ、意地悪するようでは劣悪なスパイラルから抜け出せない。
憤り、自分はそんなことはしないぞという決意こそが全ての人に求められている。
昔、カウンセリングの勉強をしていたときに、アル中や麻薬やレイプや様々な障害から、まさに立ち直られた方々と席を同じくしたことがあった。
この方々がまさに、乗り越えたんだなあ、克服したんだなあというのがひしひしとこちらに伝わってきた。その方々の話を聞いているだけで自分のブスブスと浅薄なところで持っていた青年時代の甘チョロい悩みなどが、いつの間にか無くなっていた。持っているものが深く大きければ大きいほど、乗り越えた方々は、優しく偉大なのだなあと、そのような難局を越えたことのないものにとってうらやましくもあった。02/04/25   

00/08/23
十代の残虐な犯罪が、ニュースで、報じられる。「人を殺す経験をしてみたかった。」等という彼らのコメントがニュース番組で報じられる。十年以上前に、アメリカ合衆国で子供が巡回中の警官に近寄って行って、挨拶をしながら警官を撃ち殺したという事件があった。その時の十代の犯人も「今しかできない事だから、やった。」というものだったように記憶している。 「自分は子供なので、この社会の法律で、守られていて、人を殺しても、最悪でも、死刑にならない。」ことを見越している。けっこうずるい。 よく若い連中が「大人はずるい。」等と言うが、実におかしな話だと私は思っていた。元来子供社会?で、大人や先生が回りにいなければ、無秩序になって、わがままになったり、他の子供のおもちゃやお菓子をとったり、順番を抜かしたり、悪口を言ったり、いじめたり、そのずるさたるや大人社会の比ではない。その子供社会の無秩序さを経験しているであろう連中がよくまあ子供社会のひどさをまさに経験し、十分熟知していながら、他方の大人社会を批判できるものだ。 現代社会は人類史の中ではかなりましになってきた方だということを彼らは知るべきではないか?・・・ 大人も子供にアピールしても良いのではないだろうか
今の子供達も彼らの様々な経験を通して、先輩や両親が、一見 穏やかに見えても、どれほどもがき、あえぎ、自分の時代を大きな流れに流されながらも、一生懸命生きているか同じ年齢になれば分かるだろう。人類も残酷な野獣であった時代から、わずかでも、理性と知恵を駆使しながら苦しみながら、ぎりぎりのところで生存しているのだということを次代の彼らに伝えるくらいの説明能力は持ち合わせていたいものだ。


01/02/07
「なにを」ではなく「「いかに深く」
ある板前さんの料理店に修行に入った中卒の男の子と女の子達のスクープを確か2週間に渡ってテレビ放映していたのを見たことがある。最近にしてはやけに地道な放送だなあと思ったが、それほど興味があるわけでもなく他のチャネルも見たが、おもしろいものもなかったので、ボーッと見ていた。思っていたとおり親方は、とことん厳しい、お弟子さんの先輩も、輪をかけて厳しい。全員が涙を流さない日はなかった。ただ親方も先輩達もけっして意地悪でハラスメントでやっているのではなく、料理という道のことで超がつく程まじめに取り組んでいてそれを教え込もうとしているのが見えたが、頭は殴られる、顔ははり倒される。現在の若者が見て耐えられるものではなかった。しかしながら親方の姿勢の中には、「ともすれば、いい加減に取り組んで終わりにしようとする子供達の修行に対する姿勢」を正そうとする日本人特有なのか?心底暖かいものが見える。親方の方がぐっとこらえていたのかも知れない。そのように見えた。一週目の放映は、ざっとこんなものだった。2週目の放映もたまたま見た。数年経ってからの彼らを放送していた。それは、当初6人いたはずの子供達が親方の元には男の子と女の子、この2人しか残っていなかった。他の4人は修行に耐えられなかったのか、「お母さんや家族に仕送りしているのでここの給料じゃやっていけなくて止めてしまった」との子供もいたが。やめていった。親方が残った2人の子供達をとことん鍛えたのか、子供達もそれに応じたのか、新しく店を出す事になり、その料理の一部を任されるようになっていた。その店に、親方は、やめていった子供達を招待して「その店を任された彼らの料理」を食べてもらった。招待に応じた3人の男の子達は愕然として、泣き崩れた。テレビのスタッフは帰宅時になぜ泣いたのかを3人に尋ねた。悔しかったのだそうだ。当初、自分などよりズーット料理でも他のことでもはるかに劣っていた、当時、何度習ってもいつも失敗ばかりして馬鹿にされていた彼らが、今はどうだ。自分たちがおよびのつかない程、達者な一人前の料理人として、新しい店の料理を任されるほどになっている。自分は未だ、建築現場で、下っ端で働いている。居酒屋でアルバイトで働いている。自宅の店を適当に手伝っている子供達だ。相当なショックを受けたんだそうだ。       

多くの方々が「自分に向いた仕事探し」等ということで「この仕事は自分に向いていない、もっと自分に向いた仕事はないか」など、「なにをするか」に終始しているが。自分はどのような仕事に向いているかどうかなどは神のみぞ知る事柄であるような気がする。たとえDNA解析や右脳派左脳派がどうと言ってみても・・・それよりも、真っ当なものならば、今、向き合っている仕事や用件をどれほど深く見つめ、深く知り、深く求め、更に深く身につけていくかいけるか・・・・・・「どれだけ深く」探求していくかいけるかが忘れられている。一番大事な用件が忘れ去られているならばそれはどこにも行き着くことのない空しい所業でしかない。
求められるものは「なにを」ではなく「「いかに深く」ではないだろうか・・・・・
01/02/19
余談だが、長野県田中知事が主張している、「何をなすべきか」の前に「まずどうあるべきかを問う事から始める必要がある。」ということと、主旨が異なるが一脈、通じるものがあると思う。

スタンフォード大学のある著名な教授の部屋のドアに「道」という漢字が大きく張られていた。この「道」というのは「道を極める」ということだ。多くの先輩のまねごとに終始している私にとって、あこがれの生き方・あこがれの境地だ。ともすれば日本古来の日本人にしか理解できないと言われていたこの哲学をアメリカの大学の先生が深く理解し、実践しているようだ。彼の担当する生徒にも様々な試練をどんどん与え、柔軟な対応のできる学習力旺盛な人材に育て、又育っている。日本人が「我々の哲学など彼らに分かるはずはない」等と現実を知りもしないで安穏としている内に、その核心を忘れそのなんたるかを失いつつあるにもかかわらず、どんどん名伯楽の資質を持った外国の方々がその哲学のすばらしさを受け入れ実践している。彼らのアカデミックな柔軟な学習力に脱帽する。自信を失いつつある日本人がますます大切な財産を失っていく一面がここに見られるようだ。日本人がアメリカを好きだというのなら、アメリカの真似事をするのならそれもいいかもしれないが、アメリカンドリーム等と称して表面的な「拝金主義」などまねても意味がない。彼らのまさに物事に対する旺盛な探求心や実践哲学など、その吸収する力、「ものごとの核心に迫るダイナミクス」をまねるのでなければ全くお話にならないだろう。どちらにしても、我々の足下にすばらしいかけがえのないものが落ちているのに拾い磨きもしない日本人。いつ頃からこんな精神性になってしまったのか。・・・・・・・・・・・

国も人も、自信をなくして、自分の羅針盤を無くしたり、放棄してしまうことが心配だ。今まで自己や自国が経験し学び体系づけた大切な財産を否定してしまうからだ。たとえば「決定力が遅いことが駄目」という判断があるが、活動の背景に、より的確なデーターの収集と他の人々、他国との友好的な配慮とコミュニケートを重ねる活動があれば、決定力が遅いこと自体が、大きな社会的、あるいは国際的貢献になるかもしれない。この実現の方が、その場その場の競争に勝つより、遙かに大切で、多くの信頼を勝ち取るはずだからだ [THINK DIFFERENT:考え方を変えよう] 誰も彼もダメなのではなく、ダメだと思うことがダメなのだ。自分の経験と感覚をとぎすまして 失敗や過ちを単に失敗にしてしまうのではなく、成功に向かわせる(能)力を身につけましょう。

確か、日本で会社を設立したアメリカ人の社長が「終身雇用制度?」を自社に採用している。自分の会社にはとても良い制度なのだそうだ。集団でじっくりと安定を図りながら、仕事に取り組んで行くには必要不可欠なのだそうだ。しかも業績もどんどんよくなっているとのこと。要は、その柔軟なまさにしなやかな考え方と対応の仕方ができるかどうかで、社員(人)の能力を引き出せたり、力を出せなくしてしまったりするのだろう。
なんで日本人の社長じゃなくて、アメリカ人の社長なんじゃ〜っ

追記 これからは「着てはもらえぬセーターを寒さに震えながら涙を流しながら編んではいけない。」、「フィアンセと愛を確認しながらENJOYABLEに(楽しみながら)セーターを上手に編んでいかなくてはいけない。」その合理性も求められている。何とならば上述のスタンフォードの先生は生徒を殴ったりはしないだろうし、その必要性も感じないだろう。多種多様に生徒自身が自己の個性をどんどん開花させようとライバルと競いながら、自分で緊張感を保ち、何度も何度も積極的にチャレンジできる道をあけておいてあげなくてはいけない。我々日本人は?ともすればライバルとしての競争ではなく、単に邪魔をしたり、後輩の道を絶望的にふさいでしまうからだ。もう一度言いたい「涙を流しながらセ−ターを編んではいけないし、編ませてもいけない。」

00/11/04
我々の生きているこの世界のバランス
客待ちの手持ちぶさたに、たばこも吸わない私は、あいもかわらず、テレビを観ることが多い。若い世代をむしばむ覚醒剤や新種の麻薬やダルクという救済機関のスクープ番組を放映していた。麻薬を乱用して、天国気分、夢心地に浸ったハイな気分の後には、恐ろしいほどの憂鬱、絶望感におそわれるんだそうだ。ガソリン?をかぶって火をつけ死のうとしたが一命を取り留めた青年にダルクの主催者の一人が救いの手をさしのべた。「一緒にやっていこう。君は一人じゃないんだ。」という一言に、彼は涙を流して、救いを求めたという。「うれしかった、救われた。」という彼の聞いた言葉は、同じ道を歩んで苦しんだ心底から出た人が発した正に「神の声」だったのだろう。しかし彼の「自分」との戦いは正にこれからだ。 
一個人も餓鬼になって、無茶な天国や快楽をむさぼろうとすれば、その実現?の後に来るのは、絶望、
社会や国が餓鬼になって、「金満」を求め際限のない欲ボケになりかけると、底知れない、しかも最も恐れていた窮乏経済社会だ。 
何という よくできた世界なのだろう。  (「程度の問題、こと足りる」を知らないことは=狂気なのだろう。)
小学生の頃学校で習った「作用・反作用」の道理?があるべきところでちゃんと働いているんだろうか?戒めとして受け取ればいいのだろうか?
神仏を信じようが信じまいが,すべからくこのようだ。

また自転車を盗まれたのよ馬鹿だねえ」「また自転車を壊しちゃったのよこの子に合う自転車をちょうだい。」
といって親が子供に自転車を買い与えている親子のお客さん と
「おこずかいの中から子供が自分で貯金してたまったので買いに来ました。」と言って来る親子のお客さんがいらっしゃる。
自転車屋としては、自転車が一杯売れるにこしたことはないんだが、子供に親が買い与えちゃだめ、他のページに書いたように、

ある時、高校生らしい2人連れのとんでもない話を聞いてしまった。
「自転車が古くなったので、新しいのを親に買ってくれと言ったらダメといわれちゃった。」
「駅の駐輪場に鍵かけないでおいておけば、だれかもっていくから、盗まれたら買ってもらえばいいじゃん。」
と言ったのです。

このようなことを、しかねない子供に前述の(ご両)親は育てていることに気づいていないからです。

自転車1台でも子供に与えるのではなく、子供が「自分の力で購入するのだ」という事でなければ、自主性はおろか、ものを大事にする事、様々な自己実現まで我慢できるまさに忍耐力などが身に付かないだろうし、親の子供に対する一貫した姿勢がなければ、気が向いた時にやってみても、意味がないだろう。
やっぱり私の世代の責任が問われているんだ。