続・とある少年の悲劇に対する考察
        [閉幕拒否する人々に対する考察]
                            2000 阿修羅王
 第二章 [遭遇と背景]

 かつては知らない天井だったが、いまは何だかずいぶん見慣れてしまった。穏や
かに目をさました碇シンジ少年は、ひょいと身体を起こして、ぐるりと周囲を確認
し、ついでに自分の身体も確認した。記憶が途切れたときは、大体この部屋…ネル
フ施設内病棟の一室で目が覚めるので、動作は落ち着いている。
 ずいぶん苦労を重ねたものである。
 身体に痛みはほとんどない。額にぺたんと大きめの絆創膏がはってあるだけだ。
ベッドの隣のワゴンには、自分の服がきちんと折り畳まれておかれている。
〔…いつも思うんだけど、いったい誰が脱がしてるんだろう?〕
 ゆっくり着替えながら、首を傾げるシンジ少年。当然彼は、その[権利]をめぐ
って地下で繰り広げられる、ネルフ医療班女子職員の暗闘を知らない。
 着替えおわり、自分の寝てたベッドを整えて、時計を見る。午前十時少し過ぎ。
学校にいった方がいいだろうか?そうするにしても、とりあえずは誰かにことわり
を入れなければならないだろう。〔実際はこの時、一中は多数の怪我人と施設の損
壊でこの後、三日間の生徒の自宅学習、休校処置が取られていたが〕
 ドア近くの埋め込み型の端末の電源を入れて、誰かを呼ぼうとコールボタンを押
す。と、数秒を待たずに、オペレーターの伊吹マヤ二尉の顔がモニタに映った。
〔当然、医療班にも内緒で、優先回路を確保していたのである。〕
「あれ、マヤさん?」
「シンジくん、目をさましたのね!?」
 にこっ、と嬉しそうに微笑むマヤ。その少女のようなほほ笑みからは、一時期、
本気でアスカの抹殺をはかった人間とは思えない。
「…えーと…あの…さっき、何が起こったかは、だいたいわかるんですけど…
 あの、これからどうしたらいいかなって…」
「わかったわ。ちょっと待っていて、いま、そっちに行くから。」
「え?あ、いいです。マヤさんもお仕事の最中なんでしょ?」
「大丈夫、いま、一段落ついたところだから。」
 言うなり、ふつっと回線は切れた。
 ちなみに一段落ついたどころか、オペレーターの三人+発令所勤務の職員は、先
刻のパイロット二名の破壊活動の対応に追われまくっているのが実情であった。
 さらには、何故か、微弱ながらATフィールド発生までが確認されたため、使徒
接近の警戒もあわせてやらねばならないという物凄い状況で、忙しいどころの騒ぎ
ではなく、締切八時間前の週刊漫画家のような修羅場であったのだが、伊吹二尉は
いかなる手段を使ったものか、鮮やかにそこから脱出していたという。
「えーと…?」
 シンジ少年はいささかあっけに取られて頭をかいていたが、ともあれ、もし発令
所にいたのなら、病棟までは、歩いて2、3分ほどは時間が掛かるはずである。ベ
ッドに腰掛けて、少し待つことにした。
〔なんで、マヤさんはあんなに嬉しそうなんだろう?〕
〔なにか、いいことあったのかな…〕
〔せっかくだから、マヤさんに話を聞いてもらおうかな…〕
 ふとマヤの、心底嬉しそうな笑顔を思い出して、少々表情の崩れるシンジ。やは
り彼も十四才の少年である。
 ネルフ随一のまともな女性〔だと思われている〕であり、家庭的な年上の女性で
ある伊吹二尉は、やっぱり彼にとって好ましい人間の一人であるらしい。
 と…
「お待たせ、シンジくん!」
 突然、病室の扉が開き、伊吹マヤが顔をのぞかせた。時間にして、通信を切って
から約三十秒。化粧っけの少ない顔には薄く汗が光っているし、息も少々荒い。
「ま、マヤさん?早かったですね…」
「え、えへへ…ちょうど休憩してて、この近くにいたときに、連絡を受けたの。」
 当然、そんなはずはない。発令所付近からノンストップで全力疾走し、病室前で
待機していた保安部員さえ蹴散らしての到着であった。
 そんなことは雰囲気にすら出さず、白いハンカチで汗を拭くと、ベッドに腰掛け
ているシンジ少年のかがみこむようにして、話し掛けた。
「お医者さまの話だと、軽い擦過傷だけだっていうことだけど…どこか痛まない?
 気分は?」
 シンジ少年の額に手をあて、素早く薄い胸板や背中にも軽く手を当てる。当然、
彼女が、この[役得]を狙っていたことは言うまでもない。
「あっ…あの、大丈夫ですから…!」
 どぎまぎしながら立ち上がるシンジ。マヤも、やや名残惜しそうに立ち上がると
並んで病室を出、廊下を歩き始めた。その途中でシンジはマヤにいくつか質問し、
マヤはできるだけ穏やかな表現を使って、これまでの経緯を説明していった。
「…だから、今日は、登校の必要はないと思うの。」
「やっぱり、アスカがまた暴れたんですね…」
 ため息をつくシンジ少年。アスカの暴走の場にもっとも多く立ち合い、結果とし
て一番多く[犠牲者]となっていた彼である。
「アスカって、ときどき、何の前触れもなく暴れだすときがあるんですよね…本当
に、どうしちゃったんだろう…」
〔シンジくん…あなたが原因なんだと思うけど…〕
 さらにいってしまえば、注意してみていれば、[前触れ]もちゃんとある。ただ
シンジ少年はそれに気付いていないだけである。
 時折すれ違う、羨ましそうな表情でこちらを見ているネルフ女性職員を視線で威
嚇しながら、シンジ少年の少し後について歩くマヤ。シンジ少年は、すれ違う女性
が顔を引きつらせてそそくさと歩き去ってしまうのに首を傾げながらも、みんなが
揃っているというブリーフィングルームに到着した。
 さて、その性格上、ネルフの建築物は、かなりの精度で防音が施されている。逆
に言えば音が隣に漏れるほど薄い壁や気密性の低さでは、軍事使用には向かないと
いうことなのだろうが…当然、ブリーフィングルームともなれば、その防音の精度
は群を抜く。
 シンジ少年にとって不幸であったのは、それがために、扉を開くその瞬間まで、
室内でかわされた激論の内容を知ることができなかったということであろう。
 当然、自分がその激論の原因となっていたことも。
 圧搾空気の抜けるかすかな音と共に扉が開き、シンジ少年が声をかけようと口を
開きかけた一瞬後、[それ]はやってきた。
 栗色の髪をなびかせ、蒼い眼を血走らせた、美しき[鬼]が。

 惣流・アスカ・ラングレーは、自分が焦っていることを自覚した。自覚できたか
らといって事態が好転しそうもないことで、その焦りはつのる一方であった。
 現在、自分の目の前で展開されている議論は、どうしても、自分とシンジのなか
にとっては不利に働くことばかりである。しかも腹のたつことに、その自分の失敗
をあのファーストがことごとくフォローし、株をあげていることである。
〔…やりすぎたのはわかってるわ…でも、しょうがないじゃない!〕
 思えば、オペレーション・サンダーボルトの発令により、彼女の[目的]は達成
される寸前であったのだ。シンジを篭絡し、あと一歩で[第三次的接触]…いわゆ
るサードインパクト〔嘘〕まで辿り着く寸前だったのである。
 だが。もろもろの事情…各国特殊部隊員の奮闘と、彼女は知らないことだが、綾
波レイ嬢の暗躍により、シンジ少年の[貞操]は危ういところで守られたのだが。
〔一度は、バカシンジだって、アタシのこの魅力に、陥落したのよ!〕
 それは確かなのだが、それ故に、その後逃してしまったことが返す返すも悔やま
れる。ましてや、目の前の無表情女が、その後、シンジを[保護]してさらに株を
上げて、あまつさえ一晩一緒に過ごしていたのである。
〔確か、ファーストの家に、予備の寝具なんてなかったはずだし…!〕
〔バカシンジの表情や行動からして、[ヤッた]わけじゃないようだけど…〕
〔でもなんなの!?あの、ファーストと一緒にいた、バカシンジの表情は!?〕
 思い返すたびに、真珠のような白い歯がきりきりと鳴る。
 アスカが発見したときのシンジ少年の表情は、あの、穏やかな笑顔であった。
 しかも、アスカ以外のものにはに今まで見せたことがないぐらい、極上の。
 今まで自分が独占していた〔とアスカの主張する〕その微笑みを、こともあろう
にあのファーストに!
 自分の思考をふりかえってみて、十分に納得の行く理由である、と、彼女は頷い
た。やはり、自分は理由もなく逆上するほど、軽薄で考え無しな人間ではない。
 が、その時…
 プシュ、という軽い音と共に、ブリーフィングルームのドアが開いた。
 そして、そこにあらわれたのは、碇シンジ少年その人である。〔マヤがうしろに
付き添っているが、この次点ではすでにアスカには目に入ってない〕
 その瞬間、何をしたかは、アスカ自身もよくわからない。
 でも、気が付いたら、なぜか自分は空中にいたのである。
 叫び声も上げていたような気がする。
 その瞬間、アスカの意識は、またしても暗転していた。

 さて、アスカが自分のおもいきり主観的な回想に浸っているとき、ブリーフィン
グルーム内では、比較的まともな話が進行していた。
 綾波レイ嬢が、今回の一件は、サードチルドレンに過度の負担〔様々な意味で〕
をかけたセカンドチルドレン及び作戦部長にその責任があるのでは、と問題を提起
したのである。主犯であるバカパパゲンドウは早々にトカゲの尻尾切りを決断した
らしく、それを支持。また表立ってシンジ少年に自分の行動を知られなかった赤城
リツコ博士も当然それを支持。老獪なる冬月副司令は沈黙を保ったままである。
 あわてまくった作戦部長・花の二十九歳葛城ミサト三佐は、必死に
[チルドレンたちのとの私生活面での意志疎通、交流推進]を主張したが、盗撮部
隊〔笑〕が残した[魔窟誘導及びシンちゃん拿捕・強制猥褻行為]の証拠写真を提
示されて、冷汗まみれで沈黙。
 さらに苦しい論戦を続けようとした瞬間、ブリーフィングルームに一人の少年が
登場した。言うまでもなく、碇シンジ少年である。
 その場の全員が言葉を止め、シンジ少年に視線を向けた。そして、シンジ少年が
皆の視線にすこしはびっくりしたような表情で、にかんだように口を開いた瞬間、
栗色の影が、咆哮と共にシンジ少年に襲いかかったのである。
「こっ…のぉ、バカシンジィイイイイ!!」
〔…今度は、何となく、予期できたかもしれない…〕
 シンジ少年は、一瞬にも満たない短い時間、そんなことを考えていた。そして、
その視界の端に、素早く動くいくつかの影を見たような気がした。
                                続く