続・とある少年の悲劇に対する考察
        [閉幕拒否する人々に対する考察]
                            2000 阿修羅王

 第四章 [帰り道]

 そして、その晩。
 コンフォート17、葛城家の一室で、シンジ少年は、自分のベッドに手足を伸ば
して寝転んでいた。引っ越しに必要な準備はあまりない。それほど私物が多くない
のである。帰ってきてから数時間もしないうちに、一応引っ越し準備は終了した。
 わずか数か月の間ではあったが、それまで過ごしていたいくつかの場所に比べて
も、この葛城家の一室は、今までになかったほど自分にしっくり来る場所だった。
 誰かを恨むようなことではないが、ここにくる以前、何年間もすごしていた場所
には、自分の居場所はなかったように思う。それは、自分が、[居場所]をつくろ
うととしなかったせいでもあるだろう。
 それでも、ここにきて、初めて、半ば強引な手段を使ってまで自分を[家族]と
してあつかってくれ、必要としてくれる同居人たちを得た。
 …シンジは、軽く眼を閉じて、これからのことを考えた。
〔やっぱり一度は、ここを離れることになるんだ…〕

 とりあえず、あの後、シンジ少年に帰宅許可が出て、[保護者希望者]のみで、
別室で討議することとなったのである。
 影響力は凄まじいといえ、さすがに若干十四才の綾波レイはそれに参加すること
は出来ず、シンジ少年と同時に帰宅となった。
 彼女は、無言でその指示にしたがったが、一言の反論もなかったのは、自分の立
場によほどの自信があるのか、それとも、なにか秘策でもあるのか。
 アスカは、とりあえず意識を取り戻すまでは本部内で保護。そののち、激発の危
険性がないと確認された場合、帰宅となるとのことだった。ただし、[前科]を考
慮し、シンジ少年と二人きりになる事態は、あまりに危険〔様々な意味で〕とだと
判断されるため、葛城三佐の付き添いを必須とする、とのことであった。
 シンジ少年がシャワーを浴びて着替えをすませ、男子ロッカールームを出ると、
学生カバンを身体の前で両手で持った姿勢で、無言のままたたずむ、紅い眼の少女
に出くわした。
「…綾波?」
「私も、本部内での本日の予定はすべて消化したわ。」
 シンジ少年は、レイが、自分の発言を待っているような気がして、ややぎこちな
く微笑んだ。
「…じゃあ、途中まで、一緒に帰ろうか?」
「ええ。」
 実際には、その言葉を待っていたのだろう。こくんとうなずいて、綾波レイ嬢は
シンジ少年と並んで、エレベーターへとむかった。
 ならば、自分から言いだせば良いようなものなのだが、今まで、極力人との関わ
りをさけてきたせいもあって、人との接し方がうまくつかめないのだろう。望んだ
言葉を受け取ったせいか、何となく、彼女の、形の良い眉の角度が、微妙にやわら
かくなったような気がする。
 いつもシンジ少年を自分専用の従者ように扱い、荷物を持たせて、[同じ住居]
に帰るという[同居者の特権]を最大限に見せびらかしながら帰っていく、栗色の
髪の少女が、現在シンジ少年の傍にいないということは、彼女なりに満足すべき状
態なのかもしれない。もしレイが子犬かなにかであれば、短い尻尾を一生懸命に振
っていただろう。
 が、実際に外見に現われる変化はあまりにも微妙で、シンジ少年がそれに気付く
こともなかったが、そのまま二人はネルフのゲートを出、鳴り止まぬセミの声のな
か、入道雲の沸き立つ明るい青空の第三新東京市を、ゆっくりと歩いていった。
 その途中も、会話らしい会話はあまりなく、時折、短い文章を交換するような話
を交わすだけだが、二人とも、居心地の悪さは感じなかった。
 少し前までは、沈黙と、痛みをともなうような会話ばかりだったのだが、お互い
に、できる範囲で相手を理解しようとした成果というべきか。
「なんか、変なことになっちゃったね。」
「…でも、必要な処置だと思う…」
「そうだけど…」
 遠くのアスファルトに、逃げ水がゆらめきはじめている。
「どうなるかな、住居変更。」
 シンジの問いに、少しの沈黙の後、レイの言葉が続いた。
「…保護者交替の提案、余計だった?」
「え?」
 少しだけうつむいた姿勢で、レイが続けた。
「碇君が、葛城三佐の家に、ある種の快適さを感じているのは知っているわ。
 以前まで、碇君が得られていなかった種類の…」
「…綾波…?」
「…私の提案で、それを失うことになるかもしれないわ…」
 突然のレイの発言に、シンジ少年は、思わず立ち止まってしまった。
 発言の内容もそうだが、自分と他人の間に、明確な一線を引いているレイが、自
分の生活の背景に対して、配慮してくれている…いってみれば、「思いやって」く
れているらしいことに、思い切り驚いてしまったせいである。
 シンジが突然立ち止まったことで、少し不安になったのか、レイも立ち止まって
振り返った。そこでシンジもようやく我に返って、穏やかに笑ってみせた。
「そんなことないよ。綾波は、ぼくの体調のことを考えて、提案してくれたんだろ
うし…」
 レイは、自分の感情の制御に困惑したような表情で、また歩き始めた。
「…ええ。使徒との戦いも、まだ、続くもの…」
 そっけない言い方をしてしまった後で、レイは、軽く唇を噛んだ。
 なんでだろう?なんで、自分は、こんな言い方をしてしまうのだろう?
『碇君は、せっかく、こちらに配慮してくれたのに…』
 心配なのは、[パイロットの体調]ではなく、[碇君の具合]なのに…
 自分の感情、というものを自覚しはじめた、子供たちによく見られる特徴だとい
うことは、いかに優等生な彼女でも学んでいない。世間一般で言うところの、
「照れ隠し」や、
「気にいった相手に素直になれない」
 といった症状である。
 だが、シンジは、明るい声で、いともあっさりと返事を返したのである。
「そうだね。まだ、使徒との戦いは、どれぐらい続くかわからないしね。体調管理
も、しっかりやらなくちゃ…」
 今度は、綾波レイ嬢が驚いて立ち止まってしまった。
『…一般の事例で考えるなら、感情を害さないのは、おかしいと思いのに…』
 レイにとって幸運だったことに、シンジ少年にとってみれば、こういった[素直
じゃない]感情表現は、無意識に、もう慣れっこになってしまってたのである。
 というのも、みもふたもない言いかたをすれば、今のレイなど問題にもならぬぐ
らい、もっと口が悪くて、もっと素直ではなくて、もっと容赦のない同居人が傍に
居たためである。加えるならば、もっとがさつ、でもっと無遠慮で、もっとあけす
けな年長の同居人もいたためでもあろう。
 これは、[人間的成長]といってもいいことかもしれない。
 一方、不思議な好意を持っている綾波から、話し掛けてもらったことも嬉しかっ
たし、[同僚]と認められているのも、嫌なはずもない。
「…?」
 不思議そうに自分を見るシンジ少年に、軽く頭を振ると、ほんの少しだけ嬉しそ
うに、綾波レイ嬢は一言、言った。
「…行きましょう。」
 この、一連のささやかなやりとりで、彼女の胸の奥に、かなりのレヴェルで、
[決心]や[覚悟]という、あまり穏やかとはいいがたいものが成長しているのを
幸か不幸か、この細身の少年はまだ知らなかった。
 旧い、むき出しの鉄筋コンクリートのアパートの前で、わかれる寸前、レイは、
くい、とシンジ少年の袖をひっぱった。
「…なに?」
「…また、買物、一緒に行ってくれる?」
 少しびっくりしたあと、シンジ少年は、微笑んで、頷いた。
「そうだね。前、約束してたし。家具とか、小物とかもそろえないとね。」
 レイも、納得したように袖をはなした。
「…落ち着いたら、連絡して。」
「…うん。じゃあ。」
 手を振って歩きだすシンジを、しばらくのあいだ見めけて、レイは、自分の部屋
に向かった。

 しばらく閉じていた目を開けて、シンジ少年はそっとつぶやいた。
「この家への、最後の帰り道かもしれなかったんだ…」
 と、その時、不意に学生ズボンの端を引っ張られた。
「うわっ!?」
 自分の思考に沈んでいる真っ最中に不意打ちを食らって、派手に飛び上がるシン
ジ少年。犯人は、アスカとミサト以外の同居者、ある意味ではシンジ少年の数少な
い友軍であるペンペンである。
「ペンペン、どうかした?」
「キュー…」
 爪で器用に皿を持っている。
「あ、ご飯だね。ちょっと待ってて。」
「キュ。」
 シンジ少年は、手早くエプロンを付けて、彼の第二の職場…キッチンへと向かっ
た。その背中を、頼もしそうに温泉ペンギンの視線が追う。
 よく考えると、シンジ少年が引っ越してしまうと、葛城家の扶養家族〔不要では
ない〕であるペンペンの食生活も、当然一変する。
 ネルフ内の試作兵器トライアルで、対使徒兵器としてエントリーもされかかった
[ミサトカレー]の遭遇確立も、格段に跳ね上がるだろう。
〔せめて、今日は…できるだけちゃんとしたものをつくろう…〕
 ミサト、アスカとの同居という戦争をともにくぐり抜けた、[戦友]への、せめ
てものはなむけである。
 シンジ少年は、真剣な顔つきで、とりあえずお米を研ぎ始めた。
                                 続く