続・とある少年の悲劇に対する考察
        [閉幕拒否する人々に対する考察]
                            2000 阿修羅王


 第八章 [夜明け前に]

「…ん……」
 一応、それからは何事もなく、それぞれがそれぞれの部屋へと帰り、シンジ少年
も、ゆっくりと手足を伸ばして入浴して、ベッドに潜り込んだ。
 神経が高ぶって眠れないか、とも思ったのだが、やはり、一連の騒動で、意識し
ないままに疲労はたまっていたらしい。枕に頭を乗せて数分もすると、すとんと深
い眠りに落ちてしまった。
 長い時間、夢を見るほどに浅い眠りではなかったが、いくつかの情景が、シンジ
の、静かに閉じた瞼の上を流れていった。

 …光をいっぱいに反射する、涼しげな川辺。その木陰らしい。
 まだ、1、2歳ぐらいの自分を、抱き上げてくれている母親、碇ユイ。
 子供を抱き上げた母親だけに許される表情というものだろうか、とてもやわらか
な微笑みを浮かべて、すべすべした頬を、自分に寄せている…
 長い手足をもてあますように側のベンチに腰掛けている、長身痩躯の、二十代後
半ほどの男は…あのヒゲこそないものの、もしかして、父、ゲンドウだろうか?
〔…うーん?でも、それにしては…なんか、絶対違うような気もする…〕
 夢うつつに、シンジ少年がそう思った原因は、ゲンドウ…だと思われる青年〔彼
にも青年期はあったのである〕の表情である。
 嬉しいような、それでいてどこか困ったような…一種、〔照れ笑い〕のような表
情を浮かべて、自分とユイを眺めている。
 ゲンドウが、そんな表情を浮かべるなどとは、世界の法則が許さない。
〔多分、夢だからだな…〕
 非常にあっさりと、合理的な結論を下すと〔笑〕シンジ少年…は、抱き上げられ
た子供の視点から、あたりを見回した。
〔…あれ?冬月副司令?〕
 少し離れた場所に、手を腰のうしろで組み、髪をオールバックにまとめ、きちん
と背筋をのばした紳士が、ひっそりとたたずんでいる。
 現在のシンジの知っている冬月よりはずっと若いが、彼だとすぐにわかった。
 髪の色もまだ濃い灰色だし、顔立ちも、五十歳前後の頃といったところだろう。
 だが、その姿勢と、ちょっと皮肉っぽい静かな微笑は、この時から変わらないも
のだったらく、一目でそれとわかったのであった。
〔そういえば、父さんと、母さんの、先生だったんだっけ…〕
 この三人の、どことなく噛み合わないような、その割りには三人とも納得してい
るような風景は、シンジにとっては興味深いものだった。
 それが、単なる夢ではなく、遠い記憶が夢の形をとってあらわれたものだったと
は、知る由もなかったが…三人が、なにか、単語のような会話をかわしているのが
とぎれとぎれに聞こえたような気もした。
「…こんな時に…」
「…いいえ…こんな時、だからですわ…」
「…生きていれば、どこだって、天国になれます…」
「…だって…生きているんですもの…」
 それから、いくつかの情景が、浮かび、流れて、消えていった。

 …誰から、言われたことだったか…
『君は、その目で見ていたはずだ。お母さんが、消えるさまを…
 つらいことを、無意識のうちに、記憶からしめだしていたんだ…』
〔そうだ、僕は見ていた。母さんが、起動実験で…〕

 次の情景は、三才ほどのシンジ少年が、ガラスごしに、笑って母に手を振ってい
るところだった。白衣姿の父と、同じく白衣の冬月副司令。さらに、40歳ほどの
女性…
〔誰だろう、この女の人?〕
 そして…実験場に響く、不吉なアラーム。焦燥にかられた表情で走り回るスタッ
フ。目を見開いて椅子を蹴るゲンドウ、複雑な表情の女性…
 そして、ユイは、エヴァと同化した…
 シンジは、一度、断片的に浮かんだ記憶を、今度はかなりはっきりと見ることが
できた。苦い思いはあったが、それでも、理解しようとした。
〔じゃあ、やっぱり…母さんは…〕
〔今でも、エヴァの中に、いる…のかな〕〕
〔あ、でも…そういえば…〕
〔つらいことを…記憶から…しめだしてたっていえば…〕
 ふと、ひとつの情景が浮かび上がってきた。
 が、シンジ少年は、なんとかその情景を、意志の力で押さえ付けようとした。
 反射的な、自己防衛本能の発露とも言うべき行動であった。が。
〔駄目だ!思い出しちゃ…〕
 その努力も虚しく、シンジ少年は、母の消滅の現場以上に、幾重にも封印を施さ
れていた記憶に、行き当たってしまったらしい。

 母、ユイは、微笑んでいた。が、目は笑っていない。
「…あなた、これは、どういうことかしら?」
「…も、問題ない…」
 シンジにとって、この世で一番やさしい存在だった母ユイが、ゲンドウにとって
この世でもっとも恐ろしい妻ユイだった時の記憶であった。
 ゲンドウのスーツのポケットから、幾種類かの、ピンク色のマッチやら、ひらが
なの女性名と電話番号がかかれた派手な名刺やらが、不幸にも発見されたとき。
『シンちゃんは、ちょおっと、お部屋であそんでなさい?』
 いつになく優しげな、そのわりに素晴らしい強制力をともなった言葉に、一旦は
うなずいたものの、まだようやく歩けるようになったばかりのシンジ少年は、子供
らしい好奇心を押さえられずに、母の側に行こうとしたのである。
 そして、柱の影から、それを見てしまったのである。
 当時から、どこか苦手だった、威圧感たっぷりの父。その父が、顔中に冷汗を
うかべながら、壁に張りついて怯えている様を…
 ユイの表情が見えなかったのは、せめてもの、シンジ少年に対する神の配慮だっ
たのかもしれない。
「あなた…なにか、言うことは…?」
「…ふ、冬月先生…あとは頼みます……」
 ゲンドウの、恩師に対する遺言と共に、シンジ少年の眼前で、人間の形をした暴
風が荒れ狂った。バシャッと、幼いシンジ少年の顔の半面に、鮮血が飛び散る。
 ゲンドウは、その日、原因不明の事故に遭遇したとかで、全治三ヵ月の重傷を負
って入院。ゲンドウの所属していた研究所は、一時、業務はかなりの規模で計画の
遅延を余儀なくされたという。

「はぁっ!!」
 がばっ!と身を起こしたシンジ少年は、ベッドの上で荒い息をついた。
〔…あれは…母さん?
 父さん…いったい何をやっていたんだ…?〕
 規則正しく時間を刻む、クラスィカルな壁時計に目を向けると、AM2:31を
指している。
 シンジ少年は、汗で重くなったタンクトップを、ため息を着いて脱いだ。バスル
ームへむかって、洗濯機に放りこむと、タオルを冷水で絞って、身体をふいた。
 部屋から持ってきていた、藍色の新しいTシャツを着て、部屋に戻る。
 と、その時、キッチンに、ぼうっとした明かりが見えた。
〔?〕
 冷蔵庫が開いて、その光が長く伸びている。そして、逆光の中に、長い髪のグラ
マラスなシルエットが浮かび上がっている。
 ガコ、ガコッという缶の触れ合う音と、小さな鼻歌を耳にすると、シンジ少年は
ため息をついて声をかけた。
「こんな時間に、なにやってるんですか、ミサトさん?」
「うあっ!!し、シンちゃん…脅かさないでよ、もう…」
 エビチュの500ミリ缶を両手に抱えたまま、ギクリと振り向いたのは、言うま
でもなく葛城ミサト女史である。
「え、えへへ…なんか、ちょっと、寝付かれなくて…」
「いいですけど…僕がいないあいだ、飲みすぎないようにしてくださいね。」
「あ……うん、そうね。そうよね。これからは、自己管理しなくちゃね…」
 〔僕がいないあいだ〕という言葉で、ふと、忘れかけていた[別居]を思い出し
たのか、少し寂しそうに目を伏せるミサト。が、一瞬後、ふわりと笑って、軽く、
シンジのシャツの裾を引いた。
〔いないあいだ、か。少なくとも、戻ってきてくれるつもりなのよね。〕
「ね、シンちゃん…何度も、シンちゃんの嫌がることばかりしちゃったけど…」
「なんですか?」
 一応、学習はしているらしく、心理的に身構えるシンジ少年。
「あのね、シンちゃんの[送別会]なんて、悲しいから、やりたくなかったんだけ
ど…でもね、もし、シンちゃんが、すこーしだけ、時間を空けてくれたら…」
「…?」
「ちょっとだけ、お月見でもしない?」
 さすがに、予想外の提案に、きょとんとするシンジ。
「お月見、ですか…?」
「駄目…かしら、やっぱり…」
「ええと…その…
 ええ、いいですよ。」
 ちょっと迷ったようだったが、シンジ少年は、少し考えて、うなずいた。
「ありがと!さすがシンちゃん!じゃ、用意しましょ!」
 にかっ、と極上の笑顔をひとつ見せると、缶ビールと共に、おつまみやレジャー
シートの用意を始めた。
「…一体、何の騒ぎなわけ?」
 不意に、シンジ少年の後から、ねむたげな半眼で、ふらふらとやってきたのはア
スカである。当然、[最後の夜]に、シンジ少年に記録的な攻勢をかけようと、さ
まざまにプランを練っていたのだが、同様のことを考えていたミサトとかち合い、
熾烈な牽制を繰り返すうちに、各情報機関やネルフ本部の厳しいチェックが入るに
いたり、二人ともにシンジ少年への[手出し]を断念せざるを得なくなってしまっ
たのである。
 そこでミサトはふて寝するための寝酒を取りにいき、アスカはぎりぎりと爪を噛
みつつ、これからの挽回策を試行錯誤し続けているうちに、先程の疲れが出て、つ
い眠り込んでしまっていたのである。
 そして、部屋に仕掛けていた[バカシンジに年増接近警報装置]警報に叩き起こ
され、疲労の抜け切らない身体に鞭打って、起きだしてきたというわけであった。
「あ…アスカ。ミサトさんが、送別会がわりに、お月見なんてどうか、って…」
 シンジ少年の言葉に、ギッ!とミサトに視線を向けるアスカ。
〔この年増…!この期に及んで、まだあきらめてなかったのねぇ…!〕
 が、心中の燃えさかる敵愾心を見事に隠し、ぱっと笑ってみせた。
「ふーん、ミサトにしてはいい思い付きじゃない。いいわ。アタシも!」
 一瞬、細刃が絡むように視線が交錯したが、アスカ、ミサト双方ともに、それ以
上は何も口にせず、怪しげな笑みを浮かべながら、黙々と用意を続けるのだった。
「………?」
 何やら不穏な気配はそれとなく察しているのだが、確信が持てないまま、シンジ
少年も、クーラーボックスに氷を入れて、ベランダに出るのであった。
                                  続く