第13章 「転居とその経緯」

 記録には特に残らない、それぞれ個人の感傷や感慨、いくつかの会話や交渉、
また個人レベルの号泣や歓喜はあったものの、翌日、定時をもって、シンジ少年の
引っ越しは、断行された。
 もともと多くはないシンジ少年の私物は、さらに、当面必要なものだけにまとめ
られ…ミサトやアスカが、いつシンジ少年が戻ってきてもいいように、彼のものを
極力残したがったのである…ネルフの護衛つきで、すでに運ばれていた。
 あとは、シンジ少年自身が移動するのみである。

 その日の朝も、シンジ少年は、ミサトには和食、アスカには洋食の朝食を整え、
せめてもの心遣いか、昼食のお弁当まで用意していた。いつもの鍋をいつもの場所
に掛け、エプロンを畳んでいつもの椅子にかけるその動作を、二匹…いや失礼、二
人の美女と美少女は、檻にぶちこまれた猛獣のごとく、並んで唸りながら見つめて
いる。
 そして、午前11時には、シンジ少年は、このミサト邸を出発し、新しい保護者
である赤城博士の住居へ、向かうこととなるはずであった。
 その時間がじりじりと近付いていくにつれ、ミサトの唸り声はさらに重く低く響
き、アスカの眉間の縦皺はどんどん深くなっていった。
〔シンちゃん…いっちゃうのね…もう少しで…〕
〔バカシンジ…何よ、このアタシのために拒否ぐらいしても良かったじゃない…〕
 アスカとミサトは、お互いそっくりな動作で、憎たらしくも前進する時計の針を
にらみつける。
 そう、もう少しで、シンジ少年は出発してしまう。一時的なものとはいえ、ここ
以外の場所が、彼の帰ってくる、「シンジの家」になってしまう…
 彼は、すこしすまなそうに、それでも、心配させないようににこりと笑って、
「行ってきます。」
 とだけいって、行くだろう。いつも、出掛けるように!
 こういった状況下では、思考の方向性は全く同じなようで、アスカとミサトは、
その情景をほぼ同時に想像し、またほぼ同時に床を踏みしめて立ち上がった。
「シンちゃん!」
「はい?」
 口火を切ったのは、ミサトである。凄まじい勢いで脳細胞がフル回転し、一つの
結論を出した。
「やっぱり、保護者交替は、きちんと本人達が責任をもって行なうものよね!」
「えっと、その…」
「私としたことが、うっかり失念してたわ!リツコの所まで、きちんと送り届けて
引継ぎを完了させなきゃきけないわね!いいでしょ!?」
「あの、はい…」
 とりあえずこれで、シンジ少年の「出立」を見送らずに済む。一瞬遅れて、アス
カがミサトに倍する声で叫ぶ。
「じゃあ、アタシも同行してあげるわ!!
 学者馬鹿、って言葉もあるし、リツコが家事上手とも聞かないしね!リツコの家
が、バカシンジの住居にふさわしいか、アタシも確認してあげるわよ!
 あ、あくまで、対使徒の戦力低下につながらないようにね!!」
 人間、自分の行動のための理由というものは、いくらでも思いつくものらしい。
 結局、シンジ少年の[一人で出立]の場面は大幅に書き替えられ、両サイドを、
しっかり美女二名にかためられての出立となるのであった。
 目標は、赤城リツコ博士の自宅であるが、予定時間より多少早いため、そこに直
行はせず、まだリツコ博士が仕事を続けている、ネルフ本部へ行くことになる。
 シンジ少年は、状況を理解できないまま、二人に引きずられて、ミサトの愛車・
ルノー・アルピーヌに乗り込むのであった。

 さて、一方、こちらはネルフ本部内、発令所。
 いつもであれば、外界との雑音を一切遮断して、淡く色のついた眼鏡ごしに一心
にディスプレイを見つめているはずの赤城リツコ博士は、その日、朝からどことな
く上機嫌で、メイクの微調整に余念がなかった。
 本日、この業務さえおわってしまえば、シンジ少年が、自分の同居者として、自
宅にきているのである。唇のはしを、ほんの数ミリだけほほえませながら、凄まじ
い速さで、ディスプレイスクリーンに表示される数字と文字の羅列を読み取ってい
る。MAGIの、自己診断プログラムのチェックと、エヴァ擬体と、エヴァ本体の
シンクロによる稼働の誤差修正プログラムの構築の仕上げであった。
〔もうそろそろ、引継ぎの時間ね…シンジ君、一人で、自宅に行っている可能性は
低いから、もう少ししたら、こちらに連絡してくれるのかしら?〕
 声にはださないで、吐息だけで笑いながら、一人、想像を楽しむリツコ博士。
 その間にも、スクリーンをチェックする視線は一瞬も休まず、少しでも不備があ
れば、きっちりと爪のととのえられた細い指が、凄まじい速度でキーボードの上を
踊り狂う。
 発令所のオペレーター席にそれぞれ座っている青葉シゲル、日向マコト、伊吹マ
ヤの三名は、それぞれ、無言のままでときおりリツコに視線を向けている。
 青葉シゲルは、リツコの無言の微笑がよほど恐ろしいのか、顔面中に冷汗をかき
ながら、数珠をこすりあわせて[不動呪咀返し]を唱え続けている。彼の席からは
ちょうど、リツコ博士の真下から照明があたって見えるので、なおさら恐い。
 日向マコトは、こちらも冷汗を浮かべながら、ひたすらモニターにしがみついて
いる。私物の一切なかった彼の席には、「みざる・いわざる・きかざる」の三猿の
マスコットが置かれ、よく見ると彼の愛用の眼鏡は、偏光サングラスにかわってい
たりもする。
 妄想乙女マヤは、師匠と同じ分野の仕事であるがゆえに、同一データを映してい
る自分のディスプレイ内の、恐ろしい速さで流れていくデータを、唖然としてみて
いる。自分の、いったい何倍の速さで情報を処理しているのか?
 オペレーター席の三人の恐怖を知ることもなく、リツコの想像と仕事は続く。
〔実はもう、シンジくんのお部屋は、家具まで用意してあるのよね。…喜んでくれ
るかしら?もしかしたら、私だけのために、なにかしてくれるかも…〕
 ダカカカカカカカッ!という、イングラムM10短機関銃の射撃音のような凄ま
じい音は、彼女のブラインドタッチの打撃音である。画面の、スクロールの速度が
さらにあがり、サポートが追い付かなくなってきたマヤがオロオロする。もっとも
サポートは、もとより一切不要なまでの出来栄えであったが…
 マヤを置き去りにして数分、MAGI本体から、処理完了の指示が出たらしく、
画面の文字表示が止まり、状態確認のグラフバーがあらわれる。
「…あら。終わったみたいね。」
 ふと我に返るリツコ博士。一斉に振り向くオペレーター達。
 ネルフの情報処理技師が総掛かりでも、終了は午後五時とされていたのである。
リツコ・マヤの、電脳姉妹の手でも、早くて午後3時、されていたのであるが、現
在時刻は、午前11時51分である。
 手元のキーボードを、デスクのパネルを叩いて収納すると、軽くまぶたを揉み解
して、立ち上がってのびをするリツコ。
「思ったより、早く終わったわね。」
「思ったより早くって…」
 リツコは、すでに、素早く、手荷物を片付けはじめている。
「本部内の予定は、確か、今日はもうなかったわね?私は、自宅に戻って、残って
いるデータ処理をさせてもらうから。貴方たちも、今日は、それが終わったら、あ
がっていいわよ。」
「はい…。」
「ハイ!」
「わかりました、先輩…うううう…」
 必死にリツコの処理したデータを追っていくマヤ。既に泣きが入っている。
「…そうそう、h7の状況下で展開される作動データ、理論値との差異が、予想よ
り大きいわ。模擬体からのフィードバックにズレが出るから、一つ上の領域から、
データを再構築しておいて。ツールは、41番フォルダに入れてあるから。
「ふぁい…あうううう…」
 さらに課題が乗せられて、ぐすぐすと鼻を鳴らすマヤ。彼女も、リツコには及ば
ないなりに、嵐のような勢いでキーボードに指を走らせている。
〔本当は、シンジくんの[新居]に、遊びにいくつもりだったのに!〕
 結局、彼女が処理を終了するのは、さらに一時間後である。〔それでも驚異的な
速度ではある。〕
[赤城リツコ博士は、未だ、本気になってはいなかった]
 という噂が、学会にまで流れることとなるのであるが、そのきっかけが、
[楽しい妄想]
[その現場への期待]
 で会ったことは、ごく一部のものしか知らない事実である。

 リツコ博士の眉が、微妙な角度で何度か動く。
〔それで…〕
 笑顔を保ったままで、こめかみの辺りに雷雲の気配が走る。
〔なんで、貴方たちまで、ここにいるのかしら?〕
 本部内の、エントランスホールである。セキュリティゲートの傍にたたずむのは
当然、シンジ、アスカ、ミサトの三人であった。
 本部職員から、
『赤城博士、サードチルドレンが、今後の予定を聞きにきていますが…」
 という連絡を受けたリツコ博士は、はじめてのデートに向かう女子中学生のよう
な足取りで、エントランスホールに向かったのであるが。
 そこには、なぜかすまなそうな表情の、美少年が一人。
 そして、非常な邪魔者が約二匹ほど、存在していたのであった。

                               14章に続く